第 3 章 二重スリット実験 — 決定論と実在論の崩壊¶
前回までのあらすじ:
第 1 章では黒体輻射・光電効果・原子の安定性という 3 つの危機から、エネルギーの離散性(量子化)が不可避であることを見た。第 2 章では de Broglie (ド・ブロイ) の物質波仮説と電子線回折実験を通じて、粒子にも波動性があることを確認した。しかし「粒子が波のように振る舞う」とは、具体的にどういう意味なのか? 何が「波打って」いるのか? この問いに正面から向き合うのが本章の実験である。
この章のゴール
電子の二重スリット実験(思考実験と実際の実験)を詳細に追い、次の 3 つの結論を導く。 1. 電子は個々に粒子として検出されるが、多数集めると干渉縞を示す 2. 「どちらのスリットを通ったか」を確定させると干渉が消える 3. 古典的な粒子像でも波動像でも、この現象を完全には説明できない — 確率の本質的な役割と決定論の崩壊
3.1 弾丸の二重スリット — 古典粒子のベースライン¶
🟡 リナ: 今日は量子力学で最も有名な実験を取り上げるわ。二重スリット実験。でもいきなり電子を飛ばすのではなく、まず日常的な粒子——弾丸——で同じ実験をしたらどうなるか、確認しておきましょう。
🔵 カイ: 弾丸で二重スリット? なんだか物騒ですね。
🟡 リナ: 思考実験だから安心して。装置はこうよ:
- 機関銃が弾丸をランダムな方向にばらまく
- その前方に 2 つのスリット(スリット 1 とスリット 2)を持つ壁がある
- 壁の向こうに止め板があり、位置 \(x\) に沿って検出器を動かせる
弾丸の場合は「孔」と呼ぶ方が自然だけれど、後で電子や波の実験と比較するから、「スリット」と「孔」を同じ意味で使うことにするわ。どちらも壁に開いた隙間のことよ。
🟡 リナ: 弾丸は「絶対に壊れない」理想的なものとする。半分に割れたりしない。検出器に到達するときは、いつも丸ごと 1 個として届く。そして壁のスリットは 2 つしかないから、弾丸は必ずどちらか一方のスリットを通ることになるわ。つまり「スリット 1 を通る」と「スリット 2 を通る」は同時に起きない——確率で言う排反事象ね。
⚪ メイ: 壊れないし、壁を突き抜けもしないなら、スリット 1 かスリット 2 のどちらかを通るしかない——排反事象ということね。
🟡 リナ: その通り。十分長い時間、弾丸を撃ち続けて、検出器の各位置 \(x\) での到達確率 \(P(x)\) を測定する。3 つのケースを比べてみましょう。
- スリット 2 を塞いだとき: 弾丸はスリット 1 だけを通る → 確率分布 \(P_1(x)\)
- スリット 1 を塞いだとき: 弾丸はスリット 2 だけを通る → 確率分布 \(P_2(x)\)
- 両方のスリットを開けたとき: 確率分布 \(P_{12}(x)\)
🔵 カイ: 両方開けたら、\(P_1\) と \(P_2\) を足したものになるんじゃないですか? だって弾丸はどちらか一方を通るんだから。
🟡 リナ: まさにそう。実験結果は:
⚪ メイ: 「孔 1 を通る」事象と「孔 2 を通る」事象は排反だから、全体の確率はそれぞれの確率の和——高校の確率で習った加法定理そのままね。
🟡 リナ: そう。この結果を「干渉なし (no interference)」と呼ぶことにするわ。図 3.1「弾丸の二重スリット実験の概念図」 に実験の全体像をまとめたから、確認しておいてね。なぜ「干渉なし」と呼ぶのかは、次の波の実験を見ればわかる。次の節で見る「干渉縞」は、弾丸の場合には現れない——それが「干渉なし」の意味よ。
図 3.1: 弾丸の二重スリット実験の概念図。機関銃から発射された弾丸がどちらか一方の孔を通り、確率分布 \(P_{12} = P_1 + P_2\) に従って壁に当たる。次節で見る「干渉縞」は現れない。
✅ 理解度チェック: 弾丸の二重スリット実験で \(P_{12} = P_1 + P_2\) が成り立つ物理的理由を述べてください。
答え
弾丸は壊れない粒子であり、必ず孔 1 か孔 2 のどちらか一方を通る。「孔 1 を通る」と「孔 2 を通る」は排反事象なので、確率の加法定理により全体の確率は各確率の和になる。
3.2 水面波の二重スリット — 干渉の数学的構造¶
🟡 リナ: 次に、同じ装置を水面波でやってみましょう。浅い水槽に波源を置いて、円形の波を出す。壁には 2 つのスリットがあり、その向こうに検出器を置く。検出器は波の強度を測定するわ。強度というのは、波のエネルギーの大きさを表す量のこと——波が激しく揺れているほど強度が大きい、と思ってくれればいいわ。
🔵 カイ: 強度って、具体的にはどう計算するんですか? 波の高さそのものとは違うんですよね?
🟡 リナ: そう。水面の高さ(変位)を \(h\) と書くことにするわ。プランク定数と同じ文字だけれど、この節では水面波の話だから混同しないでね——文脈で区別してちょうだい。プロローグでも同じ記号を使ったわね。強度は波の振幅(振れ幅の最大値)の 2 乗に比例する——なぜ 2 乗かというと、波のエネルギーは振動の振れ幅が大きいほど大きく、物理的には振幅の 2 乗に比例するの。水面の各点は上下にバネのように振動していると思えるから、バネの弾性エネルギーが変位の 2 乗 \(\frac{1}{2}kx^2\) に比例するのと同じ理屈で、波のエネルギーも振幅の 2 乗に比例するのよ。
🔵 カイ: なるほど、波の各点がバネみたいに振動してるから、エネルギーが振幅の 2 乗に比例する……それはわかりました。でも、なんでこれから複素数が出てくるんですか?
🟡 リナ: いい質問。これから干渉の計算をするために、\(h\) を複素数で表すことにするわ。複素数で書いた場合、高校物理で言う「振幅」(実数の振れ幅の最大値)に対応するのが \(|h|\)(複素数の絶対値)よ。だから強度は \(I \propto |h|^2\) と書く——絶対値の 2 乗を取ることで、ちゃんと実数の正の値になるの。理由を先に言うと、波には「振幅(揺れの大きさ)」と「位相(山谷のどの段階か)」の 2 つの情報がある。実数 1 つでは振幅しか表せないけれど、複素数なら \(h = |h|e^{i\theta}\) と書くだけで振幅 \(|h|\) と位相 \(\theta\) の両方を 1 つの数にまとめられる。そして 2 つの波を足すとき、位相の違いが自動的に干渉の効果を生む——これがすぐ後の計算で見えるわ。
具体例で見てみましょう。振幅 1 の波が 2 つあって、一方は山の頂上(位相 \(0\))、もう一方は谷の底(位相 \(\pi\))にいるとする。実数で書くと \(h_1 = 1\), \(h_2 = -1\) で、足すと \(h_1 + h_2 = 0\)——打ち消し合う。複素数で書くと \(h_1 = 1 \cdot e^{i \cdot 0} = 1\), \(h_2 = 1 \cdot e^{i\pi} = -1\) で同じ結果ね。でも位相が \(\pi/3\) のような中途半端な値だったら? 実数だけでは「振幅 1 で位相 \(\pi/3\)」を 1 つの数で表せない。複素数なら \(h = e^{i\pi/3} = \cos(\pi/3) + i\sin(\pi/3)\) と書けて、足し算するだけで干渉の効果が自動的に出てくる。
⚪ メイ: つまり複素数なら「大きさ」と「タイミング」を 1 つの数に詰め込めるから、足し算で干渉が自動的に出る——便利な道具ね。
🟡 リナ: そういうこと。まとめると、\(h = |h|e^{i\theta}\) と書けば、\(|h|\) が振幅、\(\theta\) が位相で、2 つの波を足すときに干渉の効果が自動的に反映される。実際に観測される物理量(強度)を計算するときには \(|h|^2\) を取るから、最終結果はちゃんと実数になる。
さて、弾丸のときと同じ 3 つのケースを調べる:
- 孔 2 を塞いだとき: 孔 1 から広がる波の強度 → \(I_1(x) = |h_1(x)|^2\)
- 孔 1 を塞いだとき: 孔 2 から広がる波の強度 → \(I_2(x) = |h_2(x)|^2\)
- 両方の孔を開けたとき: 強度 \(I_{12}(x) = ?\)
🔵 カイ: 波だから重ね合わせの原理が使えますね。両方開けたら、波の高さは \(h_1 + h_2\) になる。
🟡 リナ: その通り。では強度を計算してみて。
⚪ メイ: 強度は振幅の絶対値の 2 乗だから \(I_{12} = |h_1 + h_2|^2\) ね。
🟡 リナ: そう。これを展開してみましょう。複素数の絶対値の 2 乗を展開する公式を使うわ。\(h_1\) と \(h_2\) を極形式で書くの。極形式というのは、複素数を「大きさ × 回転」で表す書き方——\(h = |h|e^{i\theta}\) と書くと、\(|h|\) が振幅の大きさ、\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\)(Euler の公式)が位相の回転を表す。第 2 章で de Broglie 波を \(e^{i(kx - \omega t)}\) と書いたのと同じ表記ね。高校で複素数を \(r(\cos\theta + i\sin\theta)\) と書いたことがあるわよね。\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\)(Euler の公式)を使えば、これを \(re^{i\theta}\) と略記できる——第 2 章で導入した関係ね。今の計算で大事なのは「\(e^{i\theta}\) と書いたら \(\cos\theta + i\sin\theta\) のことだ」という対応関係だけだから、それだけ覚えておけば大丈夫。\(h_1 = |h_1|e^{i\theta_1}\)、\(h_2 = |h_2|e^{i\theta_2}\) と書くと、\(\theta_1\), \(\theta_2\) はそれぞれの波が検出器の位置 \(x\) に届いたときの位相——波の「山」と「谷」のどの段階にいるかを表す角度よ。
🔵 カイ: 極形式は前の章でやったから大丈夫です。で、\(|h_1 + h_2|^2\) を展開したいんですよね。普通に \((h_1 + h_2)^2\) みたいに展開すればいいんですか?
🟡 リナ: 惜しい。絶対値の 2 乗だから、ただの 2 乗とは少し違うの。\(|h_1 + h_2|^2\) を展開するには、絶対値の 2 乗を「積の形」に書き換えられると便利——積の形にすれば分配法則(かっこを開く計算)が使えるから。そのための道具が複素共役 (complex conjugate)。
その前に記号の約束を 1 つ。プロローグでは複素共役を \(\bar{z}\) と書いたけれど、物理学では \(z^*\) と書くのが標準なの。今後はこちらの記号を使うわ。意味は全く同じ——虚部の符号を反転させるだけ。
複素数 \(h\) に対して、虚部の符号を反転させたものを複素共役と呼び、\(h^*\) と書く。例えば \(h = 3 + 2i\) なら \(h^* = 3 - 2i\)。そして \(|h|^2 = h^* h\) が成り立つ。実際に確かめてみると、\(h^* h = (3 - 2i)(3 + 2i) = 9 + 4 = 13\) で、これは \(3^2 + 2^2 = 13\) と一致する。一般に \(h = a + bi\) なら \(h^* h = (a - bi)(a + bi) = a^2 + b^2 = |h|^2\) ね。
⚪ メイ: つまり、絶対値の 2 乗を \(z^* z\) という積に書き換えることで、分配法則が使えるようになるのね。
🟡 リナ: そう。これを使って \(|h_1 + h_2|^2\) を展開するわ。さっき示した \(|z|^2 = z^* z\) で \(z = h_1 + h_2\) と置けば、\(|h_1 + h_2|^2 = (h_1 + h_2)^*(h_1 + h_2)\) と書ける。次に、和の複素共役は各項の複素共役の和になる——つまり \((h_1 + h_2)^* = h_1^* + h_2^*\)。これは定義から確認できるわ。\(h_1 = a + bi\), \(h_2 = c + di\) なら \(h_1 + h_2 = (a+c) + (b+d)i\) で、その複素共役は \((a+c) - (b+d)i = (a - bi) + (c - di) = h_1^* + h_2^*\)。
これを使うと:
🔵 カイ: 最初の 2 項 \(|h_1|^2 + |h_2|^2\) は、それぞれの波だけの強度ですよね。最後の 2 項 \(h_1^* h_2 + h_2^* h_1\) が「余分」に出てきた部分……これが干渉項になるんですか?
🟡 リナ: そう、まさにそこが干渉項。では最後の 2 項を具体的に計算してみましょう。さっき \(h = |h|e^{i\theta}\) と書いたわよね——この「大きさ \(\times\) 回転」の書き方を極形式と呼ぶの。極形式を代入するわ。ここで 1 つ確認——極形式 \(h = |h|e^{i\theta}\) の複素共役はどうなるかしら。\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\) だから、虚部の符号を反転すると \(\cos\theta - i\sin\theta = e^{-i\theta}\)。つまり \(h^* = |h|e^{-i\theta}\)——指数部分の符号が反転するだけ。これを使うと:
同様に \(h_2^* h_1 = |h_1||h_2|e^{i(\theta_1 - \theta_2)}\)。この 2 つを足すと、\(e^{i\alpha} + e^{-i\alpha} = (\cos\alpha + i\sin\alpha) + (\cos\alpha - i\sin\alpha) = 2\cos\alpha\) の関係を使って:
⚪ メイ: \(e^{i\alpha} + e^{-i\alpha} = 2\cos\alpha\) で虚部が消えるから、干渉項は実数になるのね。
🟡 リナ: そう。物理的な強度は実数だから、そこに足される干渉項も実数でなければ困る——ちゃんと整合しているわ。ここで \(\delta = \theta_2 - \theta_1\) は 2 つの波の位相差 (phase difference) と呼ばれる量よ。\(\cos\) は偶関数だから \(\cos(\theta_2 - \theta_1) = \cos(\theta_1 - \theta_2)\) であり、符号の取り方はどちらでも同じ結果になる。位相差 \(\delta\) が場所によって変わるのは、孔 1 から検出器までの距離と孔 2 から検出器までの距離が場所ごとに異なるから——経路の長さの差が波長の何倍かに応じて位相差が決まるの。だから検出器を動かすと \(\delta\) が連続的に変化して、\(\cos\delta\) が \(+1\) と \(-1\) の間を振動し、明暗の縞模様が生まれるわ。
先ほど \(I_1 = |h_1|^2\), \(I_2 = |h_2|^2\) と定義したから、\(|h_1| = \sqrt{I_1}\), \(|h_2| = \sqrt{I_2}\)(振幅は非負なので正の平方根を取る)。よって \(|h_1||h_2| = \sqrt{I_1 I_2}\) となり:
🔵 カイ: あ、\(I_1 + I_2\) に余分な項がついてる!
🟡 リナ: この余分な項 \(2\sqrt{I_1 I_2}\cos\delta\) を干渉項 (interference term) と呼ぶわ。
⚪ メイ: \(\cos\delta\) の値によって、強め合い(\(\cos\delta = +1\))にも弱め合い(\(\cos\delta = -1\))にもなるのね。場所によって位相差 \(\delta\) が変わるから、明暗の縞模様ができる。
🟡 リナ: そう。これが干渉縞 (interference pattern)。弾丸の式 (3.1) とは明らかに異なる結果よ。
🔵 カイ: 弾丸は確率の足し算、波は振幅の足し算。結果が全然違うんですね。
🟡 リナ: 図 3.2「水面波の二重スリット実験」 を見てちょうだい。孔 1 だけ、孔 2 だけ、両方開けたときの強度分布を比べると、両方開けたときに \(I_1 + I_2\) とは全く異なるパターンが現れることがはっきりわかるわ。
図 3.2: 水面波の二重スリット実験。左: 孔 1 のみ開放時の強度 \(I_1\)。中: 孔 2 のみ開放時の強度 \(I_2\)。右: 両方開放時の強度 \(I_{12} = |h_1 + h_2|^2\)(実線)は \(I_1 + I_2\)(破線)とは異なり、干渉により明暗の縞模様が生じる。
🟡 リナ: まさにそこがポイント。波では振幅を足してから 2 乗する。粒子では確率(= 2 乗した後のもの)を足す。この違いが干渉項を生む。
✅ 理解度チェック: 式 (3.2) で \(\delta = \pi\)(位相差が半波長分)のとき、\(I_1 = I_2 = I_0\) ならば \(I_{12}\) はいくらでしょうか?
答え
\(\cos\pi = -1\) なので、\(I_{12} = I_0 + I_0 + 2\sqrt{I_0 \cdot I_0}(-1) = 2I_0 - 2I_0 = 0\)。完全に打ち消し合い、強度がゼロになる(完全な弱め合い)。
📝 練習問題:
- 二重スリットの干渉条件の導出 → 問題 M-4. 干渉の消失を「確率の条件付き分解」で理解する
3.3 電子の二重スリット — 粒子なのに干渉する¶
🟡 リナ: さて、いよいよ本題。同じ二重スリット実験を電子でやるとどうなるか。
🔵 カイ: 第 2 章で電子に波動性があるって学んだから……干渉するんじゃないですか?
🟡 リナ: 結論を急がないで。まず実験装置を確認しましょう。
- 電子銃: 加熱したフィラメントから電子を放出し、電圧で加速する。ほぼ同じエネルギーの電子ビームが得られる
- 2 つのスリットを持つ壁: 薄い金属板に微小なスリットを 2 本刻む
- 検出器: スクリーン上に配置。電子が到達すると「カチッ」と信号を出す
🔵 カイ: 検出器って、弾丸のときと同じように 1 個ずつ数えるんですか?
🟡 リナ: そう。ここが決定的に重要な事実なの。実験結果の第一の特徴を述べるわ。
事実 1:電子は粒子として検出される¶
🟡 リナ: 検出器を動かしながら電子の到達を記録すると:
- 検出器からは離散的な「カチッ」という信号が聞こえる
- 信号は不規則なタイミングでやってくる
- しかし各信号の大きさは常に同じ — 「半分の電子」は決して検出されない
⚪ メイ: 弾丸と同じね。電子は丸ごと 1 個ずつ検出器に到達する。波のように連続的に広がって届くわけじゃない。
🟡 リナ: そう。電子は粒子として検出される。ここまでは弾丸と同じ。
事実 2:多数の電子を集めると干渉縞が現れる¶
🟡 リナ: ところが、長時間にわたって多数の電子を検出し、各位置 \(x\) での到達確率 \(P_{12}(x)\) を求めると——
🔵 カイ: まさか……
🟡 リナ: そう。水面波の干渉縞と同じパターンが現れるの。
中央付近では \(P_{12}\) が \(P_1 + P_2\) の 2 倍以上になる場所があり、ある場所ではほぼゼロになる。明暗の縞模様——干渉縞。
🔵 カイ: ちょっと待ってください。電子は 1 個ずつ「カチッ」と粒子として届くんですよね? なのに全体のパターンは波の干渉と同じ? しかも \(P_1 + P_2\) の 2 倍以上になる場所があるって、弾丸なら絶対にありえないですよね——片方の孔を塞いだときより確率が増えるなんて。
🟡 リナ: その通り。これが量子力学の核心的な謎。図 3.3「電子の二重スリット実験の概念図」 を見ながら聞いてちょうだい。もう一度はっきり言うわ:
電子は 1 個ずつ粒子として検出される。しかし、多数の電子の到達確率の分布は、波の干渉パターンと同じ形をしている。
図 3.3: 電子の二重スリット実験の概念図。電子銃から発射された電子は一個ずつ粒として検出されるのに、多数蓄積したときの確率分布 \(P_{12}\) は \(P_1 + P_2\) とは全く異なる——波の干渉パターンを示す。
🔵 カイ: でもこれって、たくさんの電子が同時に飛んでるから、電子同士がぶつかって干渉してるだけじゃないんですか?
🟡 リナ: いい疑問ね。でも違うの。実際に、電子を1 個ずつ飛ばしても——つまり前の電子が検出された後に次の電子を発射しても——十分な数を集めれば同じ干渉縞が現れる。1989 年の外村彰 (とのむら あきら) らの実験で、これが美しく実証されたわ。電子を 1 個ずつ飛ばすと、最初はスクリーン上にランダムな点が散らばるだけ。でも数千個、数万個と蓄積していくと、次第に干渉縞が浮かび上がってくる。
🔵 カイ: 1 個の電子が……自分自身と干渉してる?
🟡 リナ: 古典的な言葉ではそう表現したくなるわね。でも正確には、その「古典的な言葉」自体が適用できないということなの。これについてはもう少し後で議論するわ。図 3.4「電子の蓄積による干渉縞の出現」 を見てちょうだい。電子が 10 個程度ではただのランダムな点にしか見えないけれど、1 万個も蓄積すると干渉縞がはっきり浮かび上がってくる。
図 3.4: 電子の蓄積による干渉縞の出現。電子を 1 個ずつ照射したときのスクリーン上の蓄積パターン。少数(\(n=10\))ではランダムな点だが、多数(\(n=10000\))になると干渉縞が現れる。古典的な言葉では「1 個の電子が自分自身と干渉している」ように見えるが、正確にはこの表現自体が古典的枠組みの限界を示している。
干渉縞の数学的記述¶
🟡 リナ: 水面波のとき、強度は「振幅を足してから 2 乗」で計算できた。電子の場合も同じ数学的構造で記述できることがわかっている。プロローグで予告した確率振幅を改めて使うわ。2 つの複素数 \(\phi_1(x)\) と \(\phi_2(x)\) を定義する:
- 孔 1 だけ開いたとき: \(P_1 = |\phi_1|^2\)
- 孔 2 だけ開いたとき: \(P_2 = |\phi_2|^2\)
- 両方開いたとき: \(P_{12} = |\phi_1 + \phi_2|^2\)
ここで \(\mathrm{Re}(z)\) は複素数 \(z\) の実部を取る操作——\(z = a + bi\) なら \(\mathrm{Re}(z) = a\) ということ。なぜこの書き方をするかというと、\(\phi_1^* \phi_2\) は一般に複素数だけれど、干渉項として物理的に意味があるのはその実部だけだから。水面波のときと同じ計算で \(\phi_1^* \phi_2 = |\phi_1||\phi_2|e^{i(\theta_2 - \theta_1)}\) だから、\(2\mathrm{Re}(\phi_1^* \phi_2) = 2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta\) となる。つまり水面波のときの式 (3.2) の干渉項 \(2\sqrt{I_1 I_2}\cos\delta\) は \(2\mathrm{Re}(h_1^* h_2)\) とも書ける——同じものの別表記ね。\(\mathrm{Re}\) を使う書き方は、極形式に展開しなくても干渉項の構造が見える便利な表記として、今後よく使うわ。電子の場合も全く同じ数学的構造で、\(h\) を \(\phi\) に置き換えただけ。
🔵 カイ: 水面波のときの式 (3.2) と全く同じ構造ですね! でも \(\phi_1\) や \(\phi_2\) って何なんですか? 水面波のときは「波の高さ」だったけど、電子の場合は……?
🟡 リナ: いい質問。\(\phi_1\) と \(\phi_2\) は確率振幅 (probability amplitude) と呼ばれる複素数よ。水面波の「高さ」のような直接観測できる物理量ではない。観測できるのは \(|\phi|^2\)、つまり確率だけ。
✅ 理解度チェック: 確率振幅とは何でしょうか? また、水面波の「振幅」と電子の「確率振幅」の決定的な違いは何でしょうか?
答え
確率振幅とは、その絶対値の2乗が確率を与える複素数のこと。水面波の振幅(波の高さ)は直接観測できる物理量だが、電子の確率振幅は直接観測できず、観測できるのは \(|\phi|^2\)(確率)のみである。
⚪ メイ: つまり、電子の場合は「確率の足し算」ではなく「確率振幅の足し算」をしてから 2 乗する、ということね。
🟡 リナ: その通り。これが古典的な確率計算と量子力学の確率計算の根本的な違い。3 つのケースを表にまとめたから、表 3.1「弾丸・水面波・電子における確率の合成規則」 を見て整理してみて。図 3.5「弾丸・波・電子の確率分布比較」 にも 3 つの場合の確率分布を並べて描いたから、見比べてちょうだい。
表 3.1: 弾丸・水面波・電子における確率の合成規則
| 古典粒子(弾丸) | 波(水面波) | 電子 | |
|---|---|---|---|
| 足すもの | 確率 | 振幅 | 確率振幅 |
| 検出の仕方 | 粒子として | 連続的に | 粒子として |
| 干渉 | なし | あり | あり |
図 3.5: 弾丸・波・電子の確率分布比較。三つのケースでのスクリーン上の確率分布。弾丸は \(P_{12} = P_1 + P_2\)(単純な加算)、水面波と電子は振幅を足してから 2 乗するため干渉縞が現れる。電子と水面波は数学的には同じ干渉パターンだが、検出は粒子として行われる点が決定的に異なる。
🔵 カイ: 電子は「粒子として検出される」のに「振幅を足す」……矛盾してませんか? 「粒子」なら確率を足すべきだし、「波」なら振幅を足すけど連続的に届くはず。どっちでもないってこと?
🟡 リナ: そう、どっちでもない。さっきの 表 3.1「弾丸・水面波・電子における確率の合成規則」 と 図 3.5「弾丸・波・電子の確率分布比較」 をもう一度見ると、弾丸・波・電子の 3 つのケースの違いが一目でわかるわ。古典的な「粒子」や「波」のカテゴリーに電子を押し込めようとすると矛盾する。量子力学のアプローチは、この「矛盾」を解消しようとするのではなく、実験事実をそのまま受け入れて数学的に定式化すること。「電子とは何か」を古典的な言葉で定義するのを諦めて、「電子が何をするか」を確率振幅のルールで記述するの。この節の最後で、なぜ古典像が破綻するのかをもう少し詳しく見るわ。
✅ 理解度チェック: 電子の二重スリット実験で、弾丸の実験と共通する点と異なる点をそれぞれ 1 つ挙げてください。
答え
共通点: 電子は 1 個ずつ離散的に(粒子として)検出される。「半分の電子」は存在しない。 相違点: 多数の電子の到達確率分布が \(P_{12} = P_1 + P_2\) を満たさず、干渉縞を示す。
📝 練習問題:
- 干渉項の符号と干渉縞の明暗 → 問題 B-1. 干渉項の計算
3.4 「どちらを通ったか」を問う — 観測と干渉の消失¶
🔵 カイ: ずっと気になってたんですけど、電子がどっちの孔を通ったか、見ればいいんじゃないですか? 光を当てて。
🟡 リナ: まさにその実験をやってみましょう。壁のすぐ後ろに強い光源を置いて、孔の近くを通る電子を照らす。電子が光子を散乱すれば、光のフラッシュが見える。フラッシュの位置で、電子が孔 1 と孔 2 のどちらを通ったかがわかるはず。
実験結果:どちらを通ったかが「わかる」とき¶
🟡 リナ: 光源をつけて実験すると、こうなる:
- 検出器で「カチッ」と電子が到達するたびに、孔 1 付近か孔 2 付近のどちらかで光のフラッシュが見える
- フラッシュは必ずどちらか一方で起きる — 同時に両方で光ることはない
🔵 カイ: やった! やっぱり電子はどちらか一方を通ってるんだ!
🟡 リナ: ……と思うでしょう? でも、ここからが問題。光源をつけた状態で、「孔 1 を通った」と確認された電子だけを集めて確率分布 \(P_1'(x)\) を作り、「孔 2 を通った」と確認された電子だけを集めて \(P_2'(x)\) を作る。すると——
そして全体の確率分布は:
⚪ メイ: ……干渉縞が消えてる!
🟡 リナ: そう。「どちらを通ったか」を確認すると、干渉が消える。 図 3.6「観測による干渉縞の消失」 を見ると、観測の有無で分布がどう変わるか一目瞭然ね。
図 3.6: 観測による干渉縞の消失。観測の有無による確率分布の違い。左:「どちらのスリットを通ったか」を観測しないときは干渉縞が現れる。右:観測するとそれぞれのスリットを通った寄与が単純に足し合わさり、干渉縞が消える。観測が結果そのものを変える——量子力学の核心的な性質。
✅ 理解度チェック: 電子がどちらのスリットを通ったかを光で観測したとき、確率分布はどのように変化するでしょうか?
答え
干渉縞が消え、確率分布は \(P_{12}' = P_1 + P_2\) となる。つまり、古典粒子(弾丸)の場合と同じ単純な加算に戻る。「どちらを通ったか」の情報が得られると、干渉項が消失する。
🔵 カイ: えっ……光を当てなければ干渉するのに、光を当てると干渉しない? 光が電子を乱してるんですか?
🟡 リナ: そう考えたくなるわよね。実際、光子は電子に運動量を与えて軌道を乱す——これは事実。第 2 章の Compton 散乱で見たように、光子 1 個あたりの運動量は \(p = h/\lambda\)(\(h\) はプランク定数)だから、波長が長い光子ほど運動量が小さい。では、もっと長い波長の光を使えば、電子への擾乱を小さくできるのでは? ……と考えて実験してみると、話はそう単純ではないことがわかるの。
波長を長くする実験¶
🟡 リナ: 光の波長を徐々に長くしていくと、2 つのことが同時に起きる:
- 電子への擾乱は小さくなる → 干渉縞が回復し始める
- しかし、波長が長くなると光の分解能が落ちる → 電子がどちらの孔を通ったか区別できなくなる
「分解能が落ちる」というのはこういうこと。2 つのスリットの間隔が \(d\) だとして、「電子が孔 1 の近くにいたか、孔 2 の近くにいたか」を区別するには、少なくとも \(d\) 程度の精度で位置を特定する必要がある。ところが光には「波長より細かい位置の区別はできない」という原理的な限界があるの。波は自分の波長より狭い構造を「見る」ことができない——たとえば池に石を投げたとき、波長が 1 m の波は 10 cm の杭の存在にほとんど気づかず回り込んでしまうわよね。高校物理で「スリットの幅が波長と同程度になると回折が起きて光が広がる」と習ったのも同じ原理。
🔵 カイ: あ、回折のときにやりましたね。波長より狭い隙間を通ると、波がぶわっと広がって方向がわからなくなる。
🟡 リナ: そう。光子が何かに当たって散乱されるとき、散乱された光子自体が波として広がる。その広がりの幅は波長 \(\lambda\) 程度——つまり光子は「自分の波長より狭い範囲のどこで散乱されたか」という情報を持てないの。これは第 2 章で見た de Broglie の関係 \(\lambda = h/p\) の裏返しでもある——位置を \(\Delta x\) 程度の精度で知るには、波長 \(\lambda \lesssim \Delta x\) の光が必要。そのような光子の運動量は \(p = h/\lambda \gtrsim h/\Delta x\) だから、位置を細かく知ろうとするほど大きな運動量の光子が必要になり、電子への擾乱も大きくなるの。
⚪ メイ: 位置を正確に知ろうとすると運動量の擾乱が大きくなり、擾乱を減らそうとすると位置がわからなくなる——トレードオフなのね。
🟡 リナ: まさにそう。直感的には、大きな手袋をはめて小さなボタンを探るようなもの。波長が短ければ「細い指」で触れるから位置がわかるけれど、波長が長いと「太い指」でしか触れないから区別がつかない。だから、光の波長 \(\lambda\) がスリット間隔 \(d\) より長くなると(\(\lambda > d\))、光子がどちらのスリット付近で散乱されたか区別できなくなる。
🔵 カイ: つまり……干渉縞が見えるときは「どちらを通ったか」がわからなくて、「どちらを通ったか」がわかるときは干渉縞が消える?
🟡 リナ: 正確にそう。これは「もっと巧妙な方法を使えば両方同時に見えるかもしれない」という話ではないの。あらゆる実験方法を試しても、次の結論は変わらない:
電子がどちらのスリットを通ったかを原理的に識別できる状況では、干渉縞は消える。識別が原理的に不可能な状況でのみ、干渉縞が現れる。
🔵 カイ: 「原理的に」って、実際に見なくてもってことですか?
🟡 リナ: そう。光子がどちらの検出器に入ったかを実際に確認しなくても、確認できる可能性があるだけで干渉は消える。つまり、区別する情報が宇宙のどこかに存在するかどうかで決まるの。実際に読み取るかどうかは関係ない。
⚪ メイ: 大事なのは「見たかどうか」ではなく「情報が存在するかどうか」なのね。
数学的な整理:区別可能性と確率の足し方¶
🟡 リナ: ここで、干渉が消えるメカニズムを数学的に整理しておきましょう。光源をつけた実験では、電子だけでなく光子の状態も含めた「全体の系」を考える必要がある。
考えるべき変数は 2 つ:「電子がどちらの孔を通ったか」(孔 1 or 孔 2)と「散乱された光子がどちらの検出器に行くか」(\(D_1\) or \(D_2\))。2 つの選択肢 × 2 つの選択肢で、全部で 4 通りの組み合わせがある。それぞれの組み合わせに対して振幅を 1 つずつ定義するわ。
光子の検出器を \(D_1\)(孔 1 の近く)と \(D_2\)(孔 2 の近く)に置くとする。4 つの複素数の振幅を次のように定義するわ(それぞれの絶対値の 2 乗が、「電子がその孔を通った場合に」光子がその検出器に行く確率を与える):
光子が \(D_1\) で検出される振幅:
- \(a\):電子が孔 1 を通ったとき → 光子は近くの \(D_1\) に行く(「当たり」)
- \(b\):電子が孔 2 を通ったとき → 光子は遠くの \(D_1\) に行く(「はずれ」)
光子が \(D_2\) で検出される振幅:
- \(b'\):電子が孔 1 を通ったとき → 光子は遠くの \(D_2\) に行く(「はずれ」)
- \(a'\):電子が孔 2 を通ったとき → 光子は近くの \(D_2\) に行く(「当たり」)
覚え方を整理すると:\(a\) 系(\(a\), \(a'\))は「電子が通った孔に近い検出器に光子が行く」振幅(当たり)、\(b\) 系(\(b\), \(b'\))は「遠い検出器に行く」振幅(はずれ)。プライムなし(\(a\), \(b\))は光子が \(D_1\) に行く場合、プライムあり(\(a'\), \(b'\))は \(D_2\) に行く場合。つまり \(|a|^2\) は「電子が孔 1 を通ったとして、散乱された光子が近い方の検出器 \(D_1\) に届く確率」ということ。
光子は \(D_1\) か \(D_2\) のどちらかに必ず入るから、電子が孔 1 を通った場合は \(|a|^2 + |b'|^2 = 1\)、孔 2 を通った場合は \(|a'|^2 + |b|^2 = 1\) が成り立つわ。つまり \(|a|^2\) は「孔 1 を通った電子の光子が正しく \(D_1\) に行く確率」ということね。
🔵 カイ: なんで \(|a|^2 + |b'|^2 = 1\) なんですか?
🟡 リナ: 光子は \(D_1\) か \(D_2\) のどちらかに必ず行く——他に行き場がない。だから「\(D_1\) に行く確率」+「\(D_2\) に行く確率」= 1 よね。確率は振幅の絶対値の 2 乗だから、\(|a|^2 + |b'|^2 = 1\) になるの。高校の確率で「全事象の確率の和は 1」と習ったのと同じことよ。
🔵 カイ: あ、なるほど。全事象の確率が 1 ってことを振幅で書いただけか。……あと、\(a\) と \(a'\)、\(b\) と \(b'\) の使い分けがちょっとわかりにくいんですけど……
🟡 リナ: いい指摘ね。こう覚えて。\(a\) と \(a'\) は「正しい(近い)検出器に光子が行く」振幅——\(a\) は孔 1 の電子 → \(D_1\)、\(a'\) は孔 2 の電子 → \(D_2\)。\(b\) と \(b'\) は「間違った(遠い)検出器に行く」振幅——\(b\) は孔 2 の電子 → \(D_1\)、\(b'\) は孔 1 の電子 → \(D_2\)。つまり \(a\) 系は「当たり」、\(b\) 系は「はずれ」。そしてプライムなし(\(a\), \(b\))は光子が \(D_1\) に行く振幅、プライムあり(\(a'\), \(b'\))は光子が \(D_2\) に行く振幅、と整理すると式 (3.7) と (3.8) の構造が見えやすくなるわ。
波長が短ければ \(a\) と \(a'\) が大きく \(b\) と \(b'\) が小さい(孔 1 を通った電子の光子は \(D_1\) に行きやすく、孔 2 を通った電子の光子は \(D_2\) に行きやすい)。逆に波長が長いと、光子がどちらの検出器に行くかの区別がつかなくなり、\(a \approx b\)、\(a' \approx b'\) となる。
これらを使うと、「電子が孔 1 を通り、光子が \(D_1\) で検出される」振幅は \(a\phi_1\)、「電子が孔 2 を通り、光子が \(D_1\) で検出される」振幅は \(b\phi_2\) と書ける。もう少し丁寧に言うと、\(\phi_1\) は「電子が孔 1 を通って位置 \(x\) に到達する」振幅、\(a\) は「孔 1 を通った電子の近くで散乱された光子が \(D_1\) に届く」振幅。この 2 つが連続して起きるから、全体の振幅はその積 \(a\phi_1\) になるの。高校の確率で「独立事象 A と B が両方起きる確率は \(P(A) \times P(B)\)」と習ったわよね。それと同じ発想で、確率の代わりに振幅を使うと「連続して起きる過程の振幅は積」になる。これは次章(第 4 章)で Feynman の基本法則として正式に定式化するわ。最終的に \(|a\phi_1|^2 = |a|^2|\phi_1|^2\) となって確率の積と一致するから、従来のルールの自然な拡張になっていることは確認できる。
🔵 カイ: 確率の積ルールを振幅に置き換えたんですね。それで、式 (3.7) はどうやって出てくるんですか?
🟡 リナ: すると、「電子が \(x\) にいて、光子が \(D_1\) にいる」確率を求めたい。この終状態に至る経路が 2 つある:「電子が孔 1 を通り、光子が \(D_1\) に行く」(振幅 \(a\phi_1\))と「電子が孔 2 を通り、光子が \(D_1\) に行く」(振幅 \(b\phi_2\))。ここで重要なのは、最終的に手元にある情報は「電子が \(x\) にいる」「光子が \(D_1\) にいる」だけだということ。光子が \(D_1\) にいるという事実だけからは、電子が孔 1 を通ったのか孔 2 を通ったのか区別できない——\(b \neq 0\) なら、孔 2 経由でも光子は \(D_1\) に来うるから。だから、この 2 つの経路は区別不可能であり、振幅を足してから 2 乗する:
同様に、「電子が \(x\) にいて、光子が \(D_2\) にいる」確率は:
🔵 カイ: ちょっと待ってください。確率なら「独立事象は積」ってわかるんですけど、振幅でも同じように積にしていいんですか? 振幅って確率じゃないですよね?
🟡 リナ: いい疑問ね。ポイントは 2 つ。
第一に、確率のルールでは「A の後に B が起きる確率 = P(A) × P(B)」だった。量子力学では確率の代わりに振幅を使うのだから、「A の後に B が起きる振幅 = (A の振幅) × (B の振幅)」と拡張するのは自然でしょう?
第二に、この拡張は従来のルールと矛盾しない。なぜなら、複素数の積の絶対値は絶対値の積に等しい——\(|zw| = |z||w|\)——から、\(|a\phi_1|^2 = |a|^2|\phi_1|^2\) となって、確率の積と同じ形になるの。(\(|zw|^2 = (zw)^*(zw) = z^* w^* z w = |z|^2|w|^2\) で確認できるわ。)
つまり確率のレベルでは従来のルールと整合し、かつこのルールで計算した結果が実験と一致する——それが正当化の根拠よ。次章で Feynman の基本法則として正式に定式化するけれど、今は「確率の積のルールを振幅に置き換えたもの」として受け入れてちょうだい。
🔵 カイ: 確率の積を振幅の積に置き換える……確率の足し算を振幅の足し算に置き換えたのと同じ発想ですね。じゃあ式 (3.7) と (3.8) をどう使うんですか?
🟡 リナ: ここが核心。式 (3.7) は「光子が \(D_1\) にいた場合」、式 (3.8) は「光子が \(D_2\) にいた場合」の確率。この 2 つの場合は区別できる終状態よね——光子計数管を見れば、\(D_1\) と \(D_2\) のどちらに入ったかわかる。
量子力学のルールはこう:
区別できる終状態に対しては、確率(振幅の絶対値の 2 乗)を足す。振幅を足してはいけない。
🔵 カイ: ちょっと待ってください。さっき「区別できない経路は振幅を足す」って言いましたよね。なんで区別できると今度は確率を足すんですか? 振幅を足すのがデフォルトじゃないんですか?
🟡 リナ: いい質問ね。こう考えてみて。振幅を足すと干渉項が出る——つまり 2 つの経路が「混ざり合う」。でも光子が \(D_1\) にいる状況と \(D_2\) にいる状況は、物理的に完全に別の状況よ。具体的に言うと、実験が終わった後に光子検出器を見れば「\(D_1\) が鳴った」か「\(D_2\) が鳴った」かが必ずわかる。そして 1 個の光子が \(D_1\) と \(D_2\) の両方に同時に入ることはない——つまりこの 2 つは同時に起きない。ちょうど高校の確率で「排反事象の確率は足し算」だったのと同じ構造ね。排反事象 A と B が同時に起きないから \(P(A \cup B) = P(A) + P(B)\) だったわよね。区別できる終状態も同じで、「光子が \(D_1\) にいる」と「光子が \(D_2\) にいる」は同時に成り立たない排反な状況だから、確率を足すの。
⚪ メイ: 排反事象なら確率を足す——高校の加法定理と同じ構造が、量子力学でも「区別できる終状態」として現れるのね。
🟡 リナ: そう。逆に言えば、もし振幅を足してしまったら、「\(D_1\) に光子がいる世界」と「\(D_2\) に光子がいる世界」が干渉することになる——でも検出器を見ればどちらか一方に確定しているのだから、そんな混ざり合いは起きようがないわ。もう少し具体的に言うと、干渉というのは「2 つの可能性が区別できないから、どちらが実現したか決められない」ときに起きる現象。でも光子検出器が鳴った瞬間に「\(D_1\) だった」と確定するなら、もう一方の可能性は実現しなかったことが確定する——だから混ざり合う余地がないの。これは「なぜそうなるか」の究極的な説明というよりも、実験事実を正しく再現するルールとして受け入れるべきもの。次章で Feynman の基本法則として整理するとき、もう少しすっきりした形で述べ直すわ。
🔵 カイ: なるほど……「区別できない」ときだけ振幅が混ざり合って干渉が起きる、ということですね。
🟡 リナ: そう。さて、私たちが知りたいのは「電子が位置 \(x\) に到達する確率」よね。でも光源をつけた実験では、電子が到達するたびに光子も必ずどこかの検出器に入る。光子が \(D_1\) に入ったケースと \(D_2\) に入ったケースは排反——同時には起きない。だから全体の確率は、この 2 つのケースの確率を足し合わせたものになる。
🔵 カイ: さっきのルールで言うと、「\(D_1\) に光子がいる」と「\(D_2\) に光子がいる」は区別できる終状態だから、それぞれの確率を足す——ということですね。
🟡 リナ: その通り。式 (3.7) が「\(D_1\) に光子がいる場合の確率」、式 (3.8) が「\(D_2\) に光子がいる場合の確率」だから、全体は:
🟡 リナ: 式 (3.5) では \(\phi_1\) と \(\phi_2\) を全部足してから 2 乗した——つまり孔 1 経由と孔 2 経由の振幅が混ざり合って干渉項が出た。一方、式 (3.9) では「光子が \(D_1\) にいる場合」と「光子が \(D_2\) にいる場合」という区別できる 2 つのケースに分けて、それぞれの中で振幅を足して 2 乗し、最後にその確率同士を足している。ケース間では振幅が混ざらないから、\(\phi_1\) と \(\phi_2\) の間の干渉が抑制されるの。つまり構造としては、「区別できるケースごとに確率を出して足す」「各ケースの中では区別できない経路の振幅を足してから 2 乗する」——この二段構えになっている。
⚪ メイ: 「区別できるケースごとに確率を足す」のは、高校の排反事象の加法定理と同じ発想ね。
🟡 リナ: もし光子の波長が十分短くて完全に識別できるなら、\(b \approx 0\)、\(b' \approx 0\) となる。式 (3.9) の第 1 項に \(b \approx 0\) を代入すると \(|a\phi_1 + 0|^2 = |a\phi_1|^2\)。ここで複素数の積の絶対値は絶対値の積に等しい——\(|a\phi_1| = |a| \cdot |\phi_1|\)——から、\(|a\phi_1|^2 = |a|^2|\phi_1|^2\)。同様に第 2 項は \(|a'\phi_2|^2 = |a'|^2|\phi_2|^2\)。よって:
🔵 カイ: おお、干渉項の \(\phi_1^* \phi_2\) が完全に消えた!
🟡 リナ: \(\phi_1^* \phi_2\) を含む干渉項が消えて、\(P_1\) と \(P_2\) の重み付き和——つまり弾丸と同じ「干渉なし」の構造になる。しかも \(b' \approx 0\) なら \(|a|^2 \approx 1\)(\(|a|^2 + |b'|^2 = 1\) だったから)、同様に \(|a'|^2 \approx 1\) なので、\(P_{12}' \approx P_1 + P_2\) となって、式 (3.6) と一致するわ。
⚪ メイ: \(b \approx 0\) ということは、「孔 1 を通った電子の光子が \(D_2\) に行く確率がほぼゼロ」——つまり光子の行き先で経路が完全にわかるから、干渉項が消えるのね。
🟡 リナ: その通り。逆に、波長が長くて全く識別できないなら——光子の波長がスリット間隔より長いから、光子は「自分がどちらの孔の近くで散乱されたか」の情報を持てない。つまり電子が孔 1 を通っても孔 2 を通っても、光子が \(D_1\) に行く振幅は同じになる。だから \(a = b\) かつ \(a' = b'\) となるの(装置が対称なら \(a = a'\), \(b = b'\) も成り立つけれど、ここでは \(a = b\), \(a' = b'\) だけで十分)。このとき式 (3.9) の第 1 項 \(|a\phi_1 + b\phi_2|^2\) に \(b = a\) を代入すると \(|a\phi_1 + a\phi_2|^2 = |a(\phi_1 + \phi_2)|^2 = |a|^2|\phi_1 + \phi_2|^2\)。第 2 項 \(|b'\phi_1 + a'\phi_2|^2\) に \(b' = a'\) を代入すると \(|a'\phi_1 + a'\phi_2|^2 = |a'|^2|\phi_1 + \phi_2|^2\)。合わせて \((|a|^2 + |a'|^2)|\phi_1 + \phi_2|^2\) となる。ここで \(b' = a'\) を \(|a|^2 + |b'|^2 = 1\) に代入すると \(|a|^2 + |a'|^2 = 1\) だから、全体は \(|\phi_1 + \phi_2|^2\) に等しくなり、干渉縞が完全に回復する。
🔵 カイ: 「区別できるかどうか」が数学的に干渉項の有無を決めるんですね……でも、「区別できる」の境界ってどこなんですか? 波長を連続的に変えたら、干渉縞も連続的に変わる?
🟡 リナ: いい質問ね。実際、区別可能性は 0 か 1 かではなく連続的に変わりうる。波長を徐々に長くすると干渉縞のコントラスト(明暗の差)が連続的に回復するの。図 3.7「区別可能性と干渉縞の可視度の関係(相補性)」 を見てちょうだい。ここで区別可能性 \(\mathcal{D}\) は「光子の検出結果から電子の経路をどれだけ正しく言い当てられるか」を 0(全く区別できない)から 1(完全に区別できる)で表す量よ。直感的には、\(\mathcal{D} = 0\) は「光子がどちらの検出器に入っても経路の手がかりにならない」状態(\(a = b\) のとき)、\(\mathcal{D} = 1\) は「光子の検出器を見れば経路が確実にわかる」状態(\(b = 0\) のとき)。中間の場合は \(\mathcal{D}\) も 0 と 1 の間の値を取るわ。可視度 \(\mathcal{V}\) は干渉縞の明暗の差を数値化したもので、\(\mathcal{V} = (I_{\max} - I_{\min})/(I_{\max} + I_{\min})\) と定義されるわ(\(I_{\max}\) は干渉縞の最も明るい部分、\(I_{\min}\) は最も暗い部分の強度)。差 \(I_{\max} - I_{\min}\) が「明暗の振れ幅」で、和 \(I_{\max} + I_{\min}\) で割ることで全体の明るさに依存しない 0 から 1 の値に正規化しているの——\(\mathcal{V} = 1\) なら最も暗い部分が完全にゼロ(くっきりした縞)、\(\mathcal{V} = 0\) なら明暗の差がない(縞なし)。この 2 つの間には \(\mathcal{D}^2 + \mathcal{V}^2 \leq 1\) という相補性関係が成り立つことが知られているわ(厳密な証明は省くけれど、さっきの式 (3.9) で \(|a|\) と \(|b|\) を変えていくと、干渉項の大きさと経路識別の精度がトレードオフになることから直感的に理解できる)。
図 3.7: 区別可能性と干渉縞の可視度の関係(相補性)。左: 経路の区別可能性 \(\mathcal{D}\) が大きいほど干渉縞の可視度 \(\mathcal{V}\) は小さくなる。右: \(\mathcal{D} = 0\)(経路不明)のとき干渉最大、\(\mathcal{D} = 1\)(経路確定)のとき干渉消失、中間ではグラデーション。
🟡 リナ: でもここでは、まず極端な 2 つの場合を一般的なルールとしてまとめておきましょう:
- 過程が原理的に区別できないとき → 振幅を足す(干渉あり)
- 過程が原理的に区別できるとき → 確率を足す(干渉なし)
このルールが量子力学の確率計算の核心なの。
✅ 理解度チェック: 量子力学における「振幅を足す」場合と「確率を足す」場合の使い分けの基準は何でしょうか?
答え
過程(経路)が原理的に区別できないときは振幅を足し(干渉が生じる)、原理的に区別できるときは確率を足す(干渉は生じない)。実際に観測したかどうかではなく、区別する情報が原理的に存在するかどうかが基準となる。
✅ 理解度チェック: 「電子がどちらのスリットを通ったかを観測しなかった」場合でも干渉が消えることがある。それはどのような状況でしょうか?
答え
観測しなくても、「原理的に区別できる情報」が環境のどこかに残っている場合(例:光子が散乱されて、後から調べれば経路がわかる状態になっている場合)には干渉が消える。実際に情報を読み取るかどうかは関係なく、情報が存在すること自体が干渉を消す。
📝 練習問題:
- 光子の波長と干渉縞の可視性 → 問題 B-4. 干渉縞の極大・極小条件
3.5 古典的世界像の崩壊 — 何を諦め、何を受け入れるか¶
🔵 カイ: ここまでの話をまとめると……電子は 1 個ずつ粒子として検出されるけど、「どちらを通ったか」を問わなければ干渉する。問えば干渉が消える。……正直、何が起きてるのか全然わかりません。
🟡 リナ: 「わからない」と感じるのは正しい反応よ。Feynman (ファインマン) 自身がこう言っているわ:「量子力学を理解している人間は一人もいない、と言って差し支えないと思う」。大事なのは、何が古典的な考え方では説明できないのかを明確にすること。
🟡 リナ: ここまでの 3 つのケースを整理しておくわ。
表 3.2: 二重スリット実験における 3 つのケースと干渉の有無
| ケース | 経路情報 | 確率の合成規則 | 干渉縞 |
|---|---|---|---|
| 観測なし | 不明(区別不可) | \(P_{12} = \lvert\phi_1 + \phi_2\rvert^2\) | あり |
| 短波長光で観測 | 判明(区別可) | \(P_{12}' = P_1 + P_2\) | なし |
| 長波長光で観測 | 不明(区別不可) | \(P_{12}\) に近づく | 回復 |
古典的粒子像の検証¶
🟡 リナ: まず、次の命題を検証しましょう:
命題 A: 各電子は、スリット 1 かスリット 2 のどちらか一方を通過する。
もし命題 A が正しいなら、弾丸と同じ論理で \(P_{12} = P_1 + P_2\) が成り立つはず。しかし実験結果は \(P_{12} \neq P_1 + P_2\)。
🔵 カイ: じゃあ命題 A は間違い? 電子は両方の孔を同時に通ってる?
🟡 リナ: 「同時に通る」という表現も古典的な言葉だから、正確ではないの。正確に言えるのは:
「電子はどちらか一方を通った」と仮定すると、実験結果と矛盾する。
「両方同時に通った」とも「どちらも通らなかった」とも言っていない。「どちらを通ったか」という問い自体が、この実験状況では意味を持たないということ。
⚪ メイ: 「意味を持たない」というのは、答えがわからないのではなく、問い自体が不適切ということ?
🟡 リナ: そう。「独身者の妻は何歳か?」という問いに答えがないのと似ている。問いの前提が成り立っていない。
古典的波動像の検証¶
🔵 カイ: じゃあ電子は波なんですか? 波なら干渉するのは当然ですよね。
🟡 リナ: もし電子が古典的な波なら、検出器に連続的なエネルギーが届くはず。波源の強さを弱くすれば、届くエネルギーも連続的に小さくなるはず。でも実験では——
🔵 カイ: あ、いつも「カチッ」と 1 個分のエネルギーで届く。半分のカチッはない。
🟡 リナ: そう。古典的な波では「粒子として 1 個ずつ検出される」事実を説明できない。
まとめると:
表 3.3: 古典的粒子像と波動像の説明能力の比較
| 古典的モデル | 説明できること | 説明できないこと |
|---|---|---|
| 粒子像 | 1 個ずつ検出される | 干渉縞 |
| 波動像 | 干渉縞 | 1 個ずつ検出される |
どちらの古典像も、電子の振る舞いを完全には記述できない。
決定論の崩壊¶
🔵 カイ: もう一つ気になることがあるんですけど……1 個の電子がスクリーンのどこに到達するかは、予測できるんですか?
🟡 リナ: できない。
🔵 カイ: え、全く?
🟡 リナ: 全く。同じ装置で、同じエネルギーの電子を、同じように発射しても、到達位置は毎回異なる。予測できるのは確率分布だけ。「次の電子がスクリーンの \(x = 3.7\) mm に届く」とは誰にも言えない。
⚪ メイ: Newton 力学では、初期条件が同じなら結果も同じ——決定論的だった。量子力学ではそれが成り立たないの?
🟡 リナ: 成り立たない。これは「初期条件の知識が不十分だから予測できない」という話ではないの。初期条件を完全に揃えても、結果は確率的にしか決まらない。 これが量子力学における決定論の崩壊。
🔵 カイ: でもそれって、本当に「原理的に予測できない」んですか? 単に電子の内部に何か私たちが知らない変数があって、それを知りさえすれば予測できる……ってことはないんですか?
✅ 理解度チェック: 量子力学における「決定論の崩壊」とは何でしょうか? 古典力学における不確実性(例:初期条件の測定誤差)とはどう異なるでしょうか?
答え
量子力学では、初期条件を完全に揃えても個々の測定結果は確率的にしか決まらない。古典力学の不確実性は「初期条件の知識が不十分なために予測できない」という認識論的なものだが、量子力学の不確定性は原理的なものであり、知識の不足ではなく自然そのものの性質である。
⚪ メイ: つまり快が言いたいのは、「見かけ上ランダムに見えるだけで、実は電子の内部に私たちが知らない変数があって、それさえわかれば結果が決まるのでは?」ということね。古典力学でサイコロの出目が「原理的には」初期条件で決まるのと同じ構造かもしれない、と。
🟡 リナ: 素晴らしい質問。その「見えない情報」のことを物理学では隠れた変数 (hidden variable) と呼ぶの。実は Einstein もまさにそう考えた。「神はサイコロを振らない」と。この問いに実験的な決着をつけたのが Bell (ベル) の不等式で、第 23 章で詳しく扱うわ。結論だけ先に言うと——自然は本当にサイコロを振っている、というのが現時点の実験的証拠の示すところ。
🔵 カイ: Einstein でさえ納得できなかったことが、実験で決着したんですか……。でも「隠れた変数がない」ことをどうやって実験で確かめるんだろう。見えないものが「ない」ことを証明するのって難しそうですけど。
🟡 リナ: まさにそこが Bell の天才的なところなの。「隠れた変数があるなら、ある不等式が必ず成り立つ」ことを示して、実験でその不等式が破れるかどうかを調べた。詳しくは第 23 章で扱うわ。楽しみにしていて。
🔵 カイ: 「あるなら成り立つはずの不等式」を実験で破る……それなら「ない」ことが言えるわけですね。背理法だ。でも、隠れた変数の中身がわからないのに、「必ず成り立つ不等式」なんて導けるんですか? 具体的な形を仮定せずに、存在するという前提だけから普遍的な帰結が出るものなんですか?
🟡 リナ: いい疑問ね。直感的に言うとこういうこと——隠れた変数の「中身」は問わないけれど、「離れた場所の測定結果が瞬時に影響し合わない」(局所性)という条件だけを課す。すると、2 つの離れた粒子の測定結果の相関に上限が生まれるの。量子力学はその上限を超える相関を予言する——だから実験で区別がつく。
🔵 カイ: 局所性を仮定するだけで相関に上限が出るんですか……それは確かに「中身」を知らなくてもいいですね。
🟡 リナ: そう。Bell の巧みさは、隠れた変数の具体的な中身を知らなくても、「局所的な隠れた変数が存在する」という仮定だけから不等式を導けることにある。つまり「隠れた変数が存在する」+「局所性」という 2 つの仮定だけから不等式が出て、量子力学がそれを破る——だから少なくとも一方の仮定が間違っていると結論できる。具体的な形は問わなくていいの。詳細は第 23 章で丁寧にやるから、今は「背理法で決着がつく」という構造だけ覚えておいて。
⚪ メイ: つまり、中身がわからなくても「存在する」という仮定だけで帰結が出るから、実験で否定できるのね。背理法の構造がきれいに成り立っている。すると、Bell の議論の論理構造は「仮定(隠れた変数+局所性)→ 不等式 → 実験で破れる → 仮定の少なくとも一方が偽」——まさに背理法ね。隠れた変数の具体的な中身を指定しなくても、存在と局所性だけで不等式が出るから、反証が普遍的に成り立つ。
実在論の崩壊¶
🟡 リナ: もう一つ、より深い問題がある。古典物理学では暗黙に次のことを仮定していた:
実在論: 物理量は、測定するしないに関わらず、常に確定した値を持っている。測定とは、すでに存在している値を「読み取る」行為にすぎない。
🔵 カイ: それ、当たり前じゃないですか? 月は見ていなくても存在するでしょう?
🟡 リナ: 月のような巨視的な物体については、確かにそう。でも電子の「どちらのスリットを通ったか」については、この考え方が破綻する。
二重スリット実験が示しているのは:
「どちらを通ったか」は、測定していない限り確定していない。 測定は「すでにある値を読み取る」のではなく、値を確定させる行為である。
🔵 カイ: じゃあ、電子の位置とか速度とか、測る前には決まってないってことですか?
🟡 リナ: 少なくとも「どちらのスリットを通ったか」については、測定前には確定していない。そしてこれは電子の経路に限った話ではないの。量子力学では一般に、「全ての物理量が、各瞬間に、定まった値を持つ」という古典論の仮定が放棄される。物理状態は「全ての物理量の値の一覧表」ではなく、「測定したら何が得られるかの確率分布を与えるもの」として定義されるの。
⚪ メイ: 状態とは「値の一覧表」ではなく「確率分布の処方箋」——世界観が根本から変わるわね。
✅ 理解度チェック: 古典物理学の「実在論」とは何でしょうか? 二重スリット実験はそれをどのように否定するでしょうか?
答え
古典的な実在論とは「物理量は測定するしないに関わらず常に確定した値を持っている」という仮定である。二重スリット実験では、「電子がどちらのスリットを通ったか」が測定前には確定しておらず、確定した経路を仮定すると実験結果(\(P_{12} \neq P_1 + P_2\))と矛盾する。測定は既存の値を読み取るのではなく、値を確定させる行為である。
⚪ メイ: つまり、二重スリットで見た「経路が確定していない」という話は、量子力学全体に通じる原理なのね。
この章の結論¶
🟡 リナ: 二重スリット実験から学んだことを整理しましょう。
- 確率振幅: 電子の到達確率は、複素数の確率振幅 \(\phi\) の絶対値の 2 乗 \(|\phi|^2\) で与えられる
- 重ね合わせ: 複数の経路がある場合、区別できない経路の振幅を足してから 2 乗する
- 観測の効果: 経路を区別する情報が存在すると、干渉項が消え、確率の単純な足し算に戻る
- 決定論の崩壊: 個々の電子がどこに到達するかは原理的に予測不可能。予測できるのは確率分布のみ
- 実在論の修正: 測定されていない物理量に確定した値を帰属させることはできない
🔵 カイ: なんだか世界の見方が根本から変わりそうです……
🟡 リナ: そうね。でも大事なのは、これは哲学的な思弁ではなく、実験事実から導かれた結論だということ。自然がそうなっているの。
⚪ メイ: つまりこの章で見たのは、「確率振幅を足してから 2 乗する」というルールが実験事実を正しく再現すること、そして「どちらを通ったか」が確定していない状態こそが干渉を生む——ということね。
🟡 リナ: そう。そして裏を返せば、測定前の物理量に確定値を仮定する古典的な世界像では、この実験を説明できない。このルールを数学的に精密に定式化すれば、原子の振る舞いを定量的に予測できるようになる。次の章では、Feynman が整理した 3 つの基本法則としてそれを見ていくわ。
✅ 理解度チェック: 「電子はスリット 1 を通った」と主張するためには、どのような条件が必要でしょうか? またその条件を満たすと何が起きるでしょうか?
答え
「電子がスリット 1 を通った」と主張するには、経路を識別する測定(例:スリット付近で光子を散乱させる)が必要。しかしその測定を行うと干渉縞が消え、確率分布は \(P_{12} = P_1 + P_2\) に変わる。「どちらを通ったかがわかる」ことと「干渉縞が見える」ことは両立しない。
3.6 補足:実際の実験と歴史¶
🟡 リナ: 最後に、この実験の歴史的な注記をしておくわ。
Feynman がこの二重スリット実験を教科書に書いた 1960 年代当時、電子を 1 個ずつ飛ばして干渉縞を観測する実験はまだ実現されていなかった。Feynman は「この実験はこのままの形では実行されたことはない」と明記している。
しかし 1989 年、日立製作所の外村彰らが電子線バイプリズムを用いて、電子を 1 個ずつ飛ばして干渉縞が徐々に形成される様子を撮影することに成功した。この結果は Feynman の思考実験の予測と完全に一致した。
🔵 カイ: 思考実験が 30 年後に実証されたんですね。
🟡 リナ: 物理学のモデルの力は、まさにここにある。まだ行われていない実験の結果を予測できること。そしてその予測が後に実験で確認される。これが「反証可能性」を持つ科学的モデルの強みよ。
⚪ メイ: つまり、予測が実験で確認されたからこそ量子力学は信頼されている——逆に外れていたら修正が必要だった、ということね。
🟡 リナ: その通り。そして量子力学のモデルは、今のところそのような反証に遭遇していない。だからこそ「現時点の最良の仮説」として信頼されているの。
次章予告¶
🟡 リナ: この章では、二重スリット実験を通じて「確率振幅を足す」「区別できない過程では振幅を足し、区別できる過程では確率を足す」というルールを見出した。
でも、まだ疑問が残っているわよね:
- 確率振幅 \(\phi\) は具体的にどう計算するのか?
- 「経路が 3 つ以上ある場合」はどうなるのか?
- 「途中の経路」を経由する場合、振幅はどう組み合わさるのか?
次章(第 4 章)では、この章で垣間見た「振幅を足す」「振幅を掛ける」というルールをより一般的・精密な形に整え、もう 1 つの法則と合わせて確率振幅の 3 つの基本法則として定式化する。Feynman が整理したこの 3 法則さえあれば、あらゆる量子現象の確率計算ができるようになるわ。
練習問題¶
📝 練習問題:
- 二重スリットの干渉条件の導出 → 問題 M-4. 干渉の消失を「確率の条件付き分解」で理解する
- 干渉項の符号と干渉縞の明暗 → 問題 B-1. 干渉項の計算
- 光子の波長と干渉縞の可視性 → 問題 B-4. 干渉縞の極大・極小条件
参考文献¶
- R. P. Feynman, R. B. Leighton, M. Sands, The Feynman Lectures on Physics, Vol. III, Ch. 1 "Quantum Behavior", Ch. 3 "Probability Amplitudes" (Addison-Wesley, 1965)
- J. J. Sakurai, J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Ch. 1 (Cambridge University Press, 2021)
- 清水明『新版 量子論の基礎 — その本質のやさしい理解のために』(サイエンス社, 2004), 第 2 章「基本的枠組み」
- 広江克彦『趣味で量子力学』第 3 章「二重スリットの実験」
- A. Tonomura, J. Endo, T. Matsuda, T. Kawasaki, H. Ezawa, "Demonstration of single-electron buildup of an interference pattern", American Journal of Physics 57, 117–120 (1989)
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