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第 5 章 スピン 1/2 と Stern-Gerlach — Hilbert 空間の萌芽

前回までのあらすじ:

第 4 章では、Feynman (ファインマン) の 3 つの法則として確率振幅のルールを導入した。量子力学の確率は「振幅の絶対値の 2 乗」で与えられること、振幅は複素数であること、そして中間状態を挟むとき振幅を「掛けてから足す」ことを学んだ。今回はこのルールを、具体的な物理系——スピン 1/2 粒子の Stern-Gerlach 実験——に適用し、量子力学の数学的構造の入口を開く。

この章のゴール

  • Stern-Gerlach 実験を通じて「スピン」の離散性を確認し、状態ベクトル \(|\pm\rangle\) と基底の概念を導入する
  • 異なる方向の測定で状態が変わることを振幅の言葉で記述し、2 次元複素ベクトル空間(Hilbert 空間の萌芽)の構造を体感する

5.1 Stern-Gerlach 実験——ビームが 2 つに割れる

🟡 リナ: さて、前章で確率振幅のルールを手に入れたわね。今日はそのルールが実際にどう使われるかを、歴史的に有名な実験で見ていくわ。1922 年に Otto Stern (シュテルン) と Walther Gerlach (ゲルラッハ) が行った実験よ。

🔵 カイ: どんな実験ですか?

🟡 リナ: 実験装置はシンプルよ。高温の炉から銀原子のビームを放出して、不均一な磁場——つまり、場所によって強さが変わる磁場——の中を通過させる。そして、磁場を通り抜けた後、原子がスクリーンのどこに到達するかを観測するの。

⚪ メイ: 不均一な磁場を使う理由は?

🟡 リナ: いい質問。磁石を持って均一な磁場に置いても、磁石は回転するけど移動はしない。磁石を移動させるには、磁場の強さが場所によって変わっている——つまり勾配がある——必要があるの。銀原子は小さな磁石のように振る舞うから、不均一磁場中で力を受けて曲がるわ。

🔵 カイ: なるほど。で、古典物理学だとどうなると予想されるんですか?

🟡 リナ: 古典物理学では、炉から出てくる銀原子の「磁石の向き」はランダムにあらゆる方向を向いているはず。磁場方向と同じ向きの原子は上に曲がり、逆向きの原子は下に曲がり、中間の角度の原子は中間の力を受ける。だから——

🔵 カイ: スクリーン上に帯状の連続的なパターンが現れる?

🟡 リナ: そう、古典的予測はそれ。ところが実際の結果は——

🔵 カイ: 違ったんですか!?

🟡 リナ: ビームはきっかり 2 つのスポットに分かれたの。上と下に 1 つずつ。中間には何も現れない。図 5.1「Stern-Gerlach 実験の装置」 を見て——薄いグレーで描いたのが古典的予測の連続帯、実際に観測されたのは 2 つの濃いスポットよ。

Stern-Gerlach実験の模式図

図 5.1: Stern-Gerlach 実験の装置。炉から出た銀原子ビームが不均一磁場を通過すると、スクリーン上の 2 点に分裂する。古典物理学で予測される連続帯(薄いグレー)ではなく、離散的な 2 つのスポット(\(|+\rangle\)\(|-\rangle\))に集中する。

🔵 カイ: えっ……連続的じゃなくて、2 つだけ?

🟡 リナ: そう。これが空間量子化 (spatial quantization) と呼ばれる現象よ。銀原子が磁場方向に持つ「何か」が、連続的な値ではなく、離散的な——飛び飛びの——2 つの値しか取れないことを示しているの。

⚪ メイ: つまり、「あらゆる角度を向ける」のではなくて、「上か下か」の 2 択しかないということね。

🟡 リナ: 正確に言うと、磁場方向(\(z\) 方向としよう)の成分が 2 つの値しか取れない。その値は:

\[S_z = +\frac{\hbar}{2} \quad \text{または} \quad S_z = -\frac{\hbar}{2} \tag{5.1}\]

ここで \(\hbar\)(エイチバー)は 第 1 章で出てきた換算 Planck (プランク) 定数——\(\hbar = h/(2\pi) \approx 1.055 \times 10^{-34}\) J·s ね。

🔵 カイ: \(S_z\) って何ですか?

🟡 リナ: これが今日のメインテーマ。スピン角運動量の \(z\) 成分よ。次のセクションで詳しく説明するわ。

✅ 理解度チェック: Stern-Gerlach 実験でビームが 2 つに分かれることを「空間量子化」と呼ぶが、これは銀原子のどのような性質を示しているでしょうか?

答え

銀原子が磁場方向に持つスピン角運動量の成分 \(S_z\) が、連続的な値ではなく \(+\hbar/2\)\(-\hbar/2\) という離散的な 2 つの値しか取れないことを示している。

✅ 理解度チェック: Stern-Gerlach 実験で、古典物理学の予測と実際の結果はどう違ったでしょうか?

答え

古典物理学ではスクリーン上に連続的な帯状パターンが予測されたが、実際にはビームがきっかり 2 つの離散的なスポットに分かれた。これは銀原子の磁気的性質が連続値ではなく離散値しか取れないことを示している。

📝 練習問題:


5.2 スピンとは何か——古典的「自転」ではない内在的性質

🔵 カイ: さっき「スピン角運動量」って言いましたけど、これって電子が自転してるってことですか? 地球が自転するみたいに。

🟡 リナ: とてもいい質問。答えは「いいえ」よ。名前は「スピン (spin)」——英語で「回転」——だけど、古典的な自転とは全く別物なの。

🔵 カイ: じゃあ何なんですか?

🟡 リナ: スピンは、粒子が生まれながらに持っている内在的な角運動量よ。軌道を回ることで生じる角運動量(軌道角運動量)とは違って、粒子が静止していても存在する。古典物理学には対応物がない、純粋に量子力学的な性質なの。

⚪ メイ: 「対応物がない」というのは、古典的なイメージで理解しようとしても無理ということ?

🟡 リナ: そう。電子を「回転する小さな球」と思いたくなるけれど、電子は点粒子として扱われるモデルが最もうまくいく。点が「自転」するというのは意味をなさないでしょう? スピンは、実験で測定される物理量として存在するけれど、古典的な絵を描くことはできない。

🔵 カイ: うーん、じゃあどうやって理解すればいいんですか?

🟡 リナ: 数学的な構造と実験結果で理解するの。スピンの性質を列挙するわね。表 5.1「スピンと古典的角運動量の比較」 に古典的な角運動量との違いもまとめておく。

表 5.1: スピンと古典的角運動量の比較

性質 古典的角運動量(軌道) スピン角運動量
起源 物体の回転・公転運動 粒子が内在的に持つ(運動に依存しない)
測定値 連続的な任意の値 離散的(\(\pm\hbar/2\) のみ)
大きさの変更 回転を速く/遅くすれば変わる 粒子の種類で固定、変更不可能
古典的イメージ 回転する物体(地球の自転など) 対応するイメージなし

🟡 リナ: 具体的にスピンの性質を挙げると:

  1. 内在的——粒子の種類ごとに決まっていて、変えられない
  2. 離散的——測定値は飛び飛びの値しか取れない
  3. スピン量子数 \(s\) で特徴づけられる。電子・陽子・中性子は \(s = 1/2\)

🟡 リナ: スピン量子数が \(s\) の粒子を磁場方向に測定すると、\(S_z\) が取りうる値は \(-s\hbar\) から \(+s\hbar\) まで \(\hbar\) 刻みで並ぶ——全部で \((2s+1)\) 個よ。\(s = 1/2\) なら \(-\hbar/2\)\(+\hbar/2\)\(2 \times 1/2 + 1 = 2\) 個——だから Stern-Gerlach 実験でビームが 2 つに分かれたのよ。

⚪ メイ: なるほど。銀原子の最外殻電子が \(s = 1/2\) だから、\(S_z\) の値が \(+\hbar/2\)\(-\hbar/2\) の 2 つだけで、ビームが 2 本になるのね。……でも銀原子には電子がたくさんあるのに、なぜ 1 つだけが効くの?

🟡 リナ: いい疑問ね。銀原子は電子を 47 個持っているけれど、内側の 46 個は対になってスピンが打ち消し合っている。残った最外殻の 1 個だけがスピンを「見せる」の。だから原子全体としてスピン 1/2 のように振る舞うのよ。ちなみに、1925 年に Uhlenbeck (ウーレンベック) と Goudsmit (ハウトスミット) がこの「電子のスピン」という概念を提唱したの。Stern-Gerlach 実験の 3 年後ね。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。スピン 1 の粒子だったら 3 本に分かれるんですか?

🟡 リナ: そう! \(s = 1\) なら \(2 \times 1 + 1 = 3\) 個の値を取る——\(S_z = +\hbar, 0, -\hbar\)——だからビームは 3 本に分かれる。Feynman の教科書ではスピン 1 の例から始めているけれど、ここではスピン 1/2 を扱うわ。なぜなら、電子という最も基本的な粒子がスピン 1/2 で、しかも状態が 2 つしかないから数学が最もシンプルになるの。

✅ 理解度チェック: スピン量子数 \(s\) の粒子を磁場方向に測定したとき、\(S_z\) が取りうる値の個数はいくつでしょうか? \(s = 1/2\)\(s = 1\) の場合をそれぞれ答えてください。

答え

取りうる値の個数は \(2s+1\) 個。\(s = 1/2\) なら \(2 \times 1/2 + 1 = 2\) 個(\(\pm\hbar/2\))、\(s = 1\) なら \(2 \times 1 + 1 = 3\) 個(\(+\hbar, 0, -\hbar\))。

✅ 理解度チェック: スピンが古典的な「自転」と異なる点を 2 つ挙げてください。

答え

(1) スピンは粒子が静止していても存在する内在的性質であり、軌道運動に由来しない。(2) 測定値が連続ではなく離散的(\(\pm\hbar/2\) のみ)であり、古典的な回転体のように任意の角運動量を取ることができない。


5.3 状態ベクトルとケット記法の導入

🟡 リナ: さて、ここからが本題。Stern-Gerlach 実験の結果を、第 4 章で学んだ確率振幅の言葉で記述していくわ。そのために、状態ベクトルという概念と、それを書き表す記法を導入するわね。

🔵 カイ: 状態ベクトル?

🟡 リナ: 量子力学では、粒子の「状態」をベクトルで表すの。高校で習ったベクトルは矢印——大きさと方向を持つ量——だったわよね。量子力学の状態ベクトルも似たような「方向」を持つけれど、住んでいる空間が違う。実数の 2 次元や 3 次元ではなく、複素数の空間に住んでいるの。具体的には、成分が複素数であるベクトルを縦に並べたもの——例えば

\[\begin{pmatrix} c_+ \\ c_- \end{pmatrix}\]

のようなもの——で表せるわ。こういう「成分を縦に並べたベクトル」を列ベクトル (column vector) と呼ぶの。高校では成分を横に \((a, b)\) と書くことが多かったけれど、量子力学では縦に並べる書き方を使うの。逆に成分を横に並べたもの——\((c_+^*,\; c_-^*)\) のような形——を行ベクトル (row vector) と呼ぶわ。この区別が大事になる理由は 「要点 1:状態はベクトル」 で分かるわよ。

🟡 リナ: この状態ベクトルを書くために、Dirac (ディラック) が考案した記法を使うわ。状態を表すベクトルを

\[|\alpha\rangle\]

と書いて、ケット (ket) と呼ぶ。縦棒と山括弧で挟む記法で、\(\alpha\) の部分には状態を区別するためのラベル——名前のようなもの——を入れるの。

🔵 カイ: なんで「ケット」なんですか?

🟡 リナ: 英語の bracket(括弧)を bra と ket に分けたの。「ブラ」はこの章のすぐ後のセクションで出てくるわ。今はケットだけ覚えて。

🟡 リナ: Stern-Gerlach 実験で \(S_z = +\hbar/2\) と測定された状態を \(|+\rangle\)\(S_z = -\hbar/2\) と測定された状態を \(|-\rangle\) と書くわ。これがスピン 1/2 系の 2 つの基本状態よ。

\[|+\rangle \quad : \quad S_z = +\frac{\hbar}{2} \text{ の状態(スピン上向き)} \tag{5.2}\]
\[|-\rangle \quad : \quad S_z = -\frac{\hbar}{2} \text{ の状態(スピン下向き)} \tag{5.3}\]

⚪ メイ: \(|+\rangle\)\(|-\rangle\) は、Stern-Gerlach 装置で上に曲がったビームと下に曲がったビームに対応するのね。

🟡 リナ: その通り。そして量子力学の核心は——一般の状態は、これら 2 つの基本状態を複素数の係数をつけて足し合わせた形で書ける:

\[|\psi\rangle = c_+ |+\rangle + c_- |-\rangle \tag{5.4}\]

このような足し合わせを重ね合わせ (superposition) と呼ぶの。

🔵 カイ: 状態を「足す」って、どういう意味ですか? なぜそんなことが許されるんですか?

🟡 リナ: それは実験がそう要求するからよ。例えば、Stern-Gerlach 装置の磁場を \(z\) 方向ではなく \(x\) 方向に向けることもできるの。そうすると「\(x\) 方向にスピン上向き」という状態——これを \(|+\rangle_x\) と書くことにするわ——が選び出せる。この \(|+\rangle_x\) の粒子を改めて \(z\) 方向の装置に通すと、上と下が半々で出る。

🔵 カイ: 半々? \(|+\rangle\) なら 100% 上に行くし、\(|-\rangle\) なら 100% 下に行くはずなのに?

🟡 リナ: そう。つまり \(|+\rangle_x\) は「\(|+\rangle\) でも \(|-\rangle\) でもない第 3 の状態」なの。この第 3 の状態を 2 次元の枠組みで表すには、\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) を複素数の係数で「足し合わせる」しかない——ちょうど平面上の斜めの矢印を \(x\) 成分と \(y\) 成分に分解するように。(具体的な形と計算は 5.5「異なる方向の測定——基底の変換と確率振幅」 で行うわ。今は「そういう状態がある」とだけ思っておいて。)なぜ「足し合わせ」が数学的に許されるかは、後の章で量子力学の基本方程式(Schrödinger 方程式)が線形であることから理解できるわ。「線形」とは、ある状態が方程式の解なら、その定数倍や 2 つの解の足し合わせもまた解になる、という性質のこと——だから重ね合わせた状態も物理的に許される状態になるの。でも今は「実験がそう要求する」という事実を出発点にして進めるわね。

⚪ メイ: つまり、重ね合わせは「数学的に許される」だけじゃなくて「実験的に必要」ということね。

ここで \(c_+\)\(c_-\)複素数の係数よ。第 4 章の言葉で言えば、\(c_+\) は「状態 \(|\psi\rangle\)\(|+\rangle\) として見出される確率振幅」、\(c_-\) は「状態 \(|\psi\rangle\)\(|-\rangle\) として見出される確率振幅」。

🔵 カイ: 確率振幅! 前の章で出てきたやつですね。じゃあ、\(|c_+|^2\)\(S_z = +\hbar/2\) を得る確率で、\(|c_-|^2\)\(S_z = -\hbar/2\) を得る確率?

🟡 リナ: 完璧。そして確率の合計は 1 だから:

\[|c_+|^2 + |c_-|^2 = 1 \tag{5.5}\]

これを規格化条件 (normalization condition) と呼ぶわ。

⚪ メイ: つまり、式 (5.4) は「スピンの状態は \(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の複素数の重み付き合成で表せる」ということね。そして重みの絶対値の 2 乗が測定確率を与える。

🔵 カイ: 重ね合わせが必要だっていうのは分かったんですけど、「状態を足す」って具体的に何をしてるのかがまだピンと来ないです。普通のベクトルなら「力の合成」みたいに物理的意味がはっきりしてるけど……。

🟡 リナ: その感覚は正しいわ。抽象的に感じるのは当然よ。5.5「異なる方向の測定——基底の変換と確率振幅」\(x\) 方向の測定を具体的に計算するとき、「重ね合わせがないと実験結果を説明できない」ことが実感できるわ。具体例を見てから腑に落ちるタイプの概念だから、今は先に進みましょう。

✅ 理解度チェック: 規格化条件 \(|c_+|^2 + |c_-|^2 = 1\) は物理的に何を意味しているでしょうか?

答え

\(S_z\) を測定したとき、\(+\hbar/2\) を得る確率と \(-\hbar/2\) を得る確率の合計が 1(つまり 100%)であること、すなわち測定結果は必ずどちらか一方になることを意味する。

✅ 理解度チェック: 状態 \(|\psi\rangle = \frac{1}{\sqrt{3}}|+\rangle + \sqrt{\frac{2}{3}}|-\rangle\) に対して、\(S_z\) を測定したとき \(+\hbar/2\) を得る確率はいくらでしょうか?

答え

\(|c_+|^2 = |1/\sqrt{3}|^2 = 1/3\)

📝 練習問題:

  • 状態 \(|\psi\rangle = \frac{1+i}{2}|+\rangle + \frac{\sqrt{2}}{2}|-\rangle\) が規格化されていることを確認し、\(S_z\) の各測定値を得る確率を求めよ → 問題 B-1. 規格化条件の確認

5.4 基底・正規直交性・完全性——2 次元の状態空間

🟡 リナ: 式 (5.4) をもう少し深く理解するために、\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) がどんな性質を持つか整理するわね。

正規直交性

🟡 リナ: まず、2 つの基本状態の間の「重なり」を考えたい。そのために内積 (inner product) を導入するわ。ケット \(|\alpha\rangle\) に対応するブラ (bra)\(\langle\alpha|\) と書いて、ブラとケットを組み合わせた

\[\langle\beta|\alpha\rangle\]

を内積と呼ぶの。これは一般に複素数の値を取る。高校のベクトルの内積 \(\vec{a} \cdot \vec{b}\) が「2 つのベクトルの近さ」を測る量だったように、\(\langle\beta|\alpha\rangle\) は「状態 \(|\alpha\rangle\) と状態 \(|\beta\rangle\) の近さ」を測る量よ。具体的な計算方法(列ベクトルの成分を使ってどう計算するか)は 「要点 1:状態はベクトル」 で示すから、今は「正規直交性」という性質を使って進めるわね。

🔵 カイ: ブラケット……bracket の前半が bra で後半が ket!

🟡 リナ: そう、Dirac のしゃれよ。さて、\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) は次の性質を満たす:

\[\langle +|+\rangle = 1, \quad \langle -|-\rangle = 1 \tag{5.6}\]
\[\langle +|-\rangle = 0, \quad \langle -|+\rangle = 0 \tag{5.7}\]

🔵 カイ: 自分自身との内積が 1 で、違う状態との内積が 0?

🟡 リナ: そう。式 (5.6) は規格化 (normalization)——各基本状態の「長さ」が 1 であること。式 (5.7) は直交性 (orthogonality)——2 つの基本状態が「垂直」であること。合わせて正規直交 (orthonormal) と言うわ。

⚪ メイ: 高校の数学で、\(xy\) 平面の単位ベクトル \(\hat{\mathbf{e}}_x\)\(\hat{\mathbf{e}}_y\)\(\hat{\mathbf{e}}_x \cdot \hat{\mathbf{e}}_x = 1\)\(\hat{\mathbf{e}}_x \cdot \hat{\mathbf{e}}_y = 0\) を満たすのと同じ構造ね。

🟡 リナ: まさにそう。\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) は「量子力学版の直交座標軸」と思っていい。ただし、空間は実数 2 次元ではなく複素数 2 次元——つまり係数に複素数を使える——という違いがあるわ。

🟡 リナ: 式 (5.6) と (5.7) をまとめて、Kronecker (クロネッカー) のデルタ \(\delta_{ij}\) を使って書くと:

\[\langle i|j\rangle = \delta_{ij} \quad (i, j = +, -) \tag{5.8}\]

ここで \(\delta_{ij}\)\(i = j\) のとき 1、\(i \neq j\) のとき 0 よ。

完全性関係

🟡 リナ: さて、完全性関係を書くために、\(|+\rangle\langle+|\) という記号の意味を説明するわ。

🔵 カイ: \(|+\rangle\langle+|\) ? ケットとブラが逆に並んでる………

🟡 リナ: いいところに気づいたわね。さっきの内積 \(\langle\beta|\alpha\rangle\) は「ブラ × ケット」の順で、結果は複素数(ただの数)だった。今度の \(|+\rangle\langle+|\) は「ケット × ブラ」の順——これは数ではなく、状態ベクトルに「作用させる」もの——入力として状態ベクトルを受け取り、別の状態ベクトルを返す「操作」——になるの。関数に数を入れると別の数が出てくるように、この「操作」にベクトルを入れると別のベクトルが出てくる、と思えばいいわ。

🟡 リナ: 具体的に計算してみましょう。\(|\psi\rangle = c_+|+\rangle + c_-|-\rangle\) に対して、まず \(\langle+|\psi\rangle\) を計算するわ。ここで内積の重要な性質を使うの——線形性よ。高校のベクトルで \(\vec{a} \cdot (c_1 \vec{b}_1 + c_2 \vec{b}_2) = c_1 (\vec{a} \cdot \vec{b}_1) + c_2 (\vec{a} \cdot \vec{b}_2)\) と分配法則のように展開できたでしょう? 量子力学の内積も同じように展開できるの。つまり、ブラ \(\langle+|\) をケットの和 \(c_+|+\rangle + c_-|-\rangle\) に作用させるとき、各項に分配して計算できる:

\[\langle+|\psi\rangle = \langle+|(c_+|+\rangle + c_-|-\rangle) = c_+\langle+|+\rangle + c_-\langle+|-\rangle = c_+ \cdot 1 + c_- \cdot 0 = c_+\]

式 (5.6) と (5.7) の正規直交性を使ったわ。これを踏まえると:

\[\left(|+\rangle\langle+|\right)|\psi\rangle = |+\rangle\langle+|\psi\rangle = |+\rangle \cdot c_+ = c_+|+\rangle\]

つまり、状態 \(|\psi\rangle\) から \(|+\rangle\) 成分だけを取り出す操作——射影 (projection) よ。\(|+\rangle\langle+|\) のように「ケット × ブラ」の形で作られるものを外積 (outer product) と呼ぶの。

🔵 カイ: 外積って、高校で習った「ベクトル積」——\(\vec{a} \times \vec{b}\) で垂直なベクトルが出てくるやつ——とは違うんですか?

🟡 リナ: 全く別物よ。名前が同じなのは紛らわしいけれど、ここでの「外積」は「ケットとブラを並べて演算子を作る操作」という意味。ベクトル積とは何の関係もないから、混同しないでね。

🔵 カイ: なるほど、状態ベクトルを入れると別の状態ベクトルが出てくる「操作」なんですね。

🟡 リナ: そう。こういう「状態ベクトルに作用して別の状態ベクトルを返す操作」を一般に演算子 (operator) と呼ぶの。

🟡 リナ: さて、射影の概念を使って、とても便利な関係式を導くわ。任意の状態 \(|\psi\rangle = c_+|+\rangle + c_-|-\rangle\) に対して、\(|+\rangle\) 成分への射影と \(|-\rangle\) 成分への射影を両方足し合わせたらどうなるかしら?

🔵 カイ: \(c_+|+\rangle + c_-|-\rangle\)……元の \(|\psi\rangle\) に戻りますね!

🟡 リナ: そう! つまり、\(|+\rangle\langle+|\) は「\(|+\rangle\) 方向への射影」、\(|-\rangle\langle-|\) は「\(|-\rangle\) 方向への射影」。この 2 つを足し合わせると、どんな状態もそのまま返す操作——恒等演算子 \(\mathbf{1}\)——になる:

\[|+\rangle\langle+| + |-\rangle\langle-| = \mathbf{1} \tag{5.9}\]

⚪ メイ: なるほど。\(|+\rangle\langle+|\) が「\(|+\rangle\) 方向への射影」、\(|-\rangle\langle-|\) が「\(|-\rangle\) 方向への射影」。両方を足すと全体——つまり恒等演算子になる。

🟡 リナ: そう。これは「\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の 2 つで状態空間のすべてを尽くしている」ことの数学的表現よ。スピン 1/2 の系では、状態空間は2 次元。これ以上の基本状態は必要ないの。

🔵 カイ: 2 次元って、平面みたいなものですか?

🟡 リナ: 「複素 2 次元」だから、実数で数えると 4 つの自由度がある(\(c_+\)\(c_-\) がそれぞれ実部と虚部を持つから)。でも規格化条件で 1 つ減り、さらに「全体に同じ位相 \(e^{i\theta}\)第 4 章で出てきた、絶対値が常に 1 の複素数。\(\theta\) は実数の角度パラメータで、\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\) と書ける)を掛けても物理的に区別できない」という自由度で 1 つ減る——結果、物理的に独立なパラメータは 2 つ。球面上の 1 点で状態を指定できる——これは後の章で「Bloch (ブロッホ) 球」として登場するわ。今は細かい数え上げは気にしなくていい——大事なのは「\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の 2 つで全部書ける」ということよ。

🔵 カイ: 「自由度が 4 → 3 → 2 に減る」のは分かるんですが、「規格化条件で 1 つ減る」って具体的にはどういうことですか?

🟡 リナ: \(|c_+|^2 + |c_-|^2 = 1\) という条件があるから、\(c_+\)\(c_-\) の 4 つの実数パラメータのうち 1 つは他の 3 つから決まってしまう——独立なのは 3 つだけ、ということよ。例えば \(|c_-|\)\(|c_+|\) が決まれば \(\sqrt{1 - |c_+|^2}\) と自動的に決まるでしょう?

🔵 カイ: 「全体に位相を掛けても区別できない」ってどういう意味ですか?

🟡 リナ: 確率は \(|c_+|^2\)\(|c_-|^2\) で計算するでしょう? もし \(c_+\)\(c_-\) の両方に同じ \(e^{i\theta}\) を掛けても、\(|e^{i\theta} c_+|^2 = |e^{i\theta}|^2 |c_+|^2 = 1 \cdot |c_+|^2 = |c_+|^2\) だから確率は変わらない(\(|e^{i\theta}| = 1\)第 4 章で確認したわね)。つまり全体位相は測定結果に一切影響しないの。だから物理的に同じ状態とみなすのよ。詳しくは後の章で改めて扱うわ。

内積の物理的意味

🟡 リナ: 完全性関係を使うと、式 (5.4) の係数 \(c_+\), \(c_-\) の意味がはっきりするわ。式 (5.9) を \(|\psi\rangle\) に左から作用させると:

\[|\psi\rangle = |+\rangle\langle+|\psi\rangle + |-\rangle\langle-|\psi\rangle\]

比較すると:

\[c_+ = \langle+|\psi\rangle, \quad c_- = \langle-|\psi\rangle \tag{5.10}\]

⚪ メイ: つまり、係数 \(c_+\) は「状態 \(|\psi\rangle\) と基本状態 \(|+\rangle\) の内積」そのものね。これが 第 4 章で学んだ確率振幅 \(\langle+|\psi\rangle\) と一致する。

🟡 リナ: そう。内積 \(\langle+|\psi\rangle\) は「状態 \(|\psi\rangle\) にある粒子を測定したとき、\(|+\rangle\) が見出される確率振幅」。その絶対値の 2 乗 \(|\langle+|\psi\rangle|^2\) が確率を与える。第 4 章のルールがここで具体的な形を取ったわけね。

✅ 理解度チェック: 外積 \(|+\rangle\langle+|\) を状態 \(|\psi\rangle\) に作用させると何が得られるでしょうか? この操作を何と呼ぶでしょうか?

答え

\(|+\rangle\langle+|\psi\rangle = c_+|+\rangle\) が得られ、状態 \(|\psi\rangle\) から \(|+\rangle\) 成分だけを取り出す。この操作を射影(projection)と呼ぶ。

✅ 理解度チェック: 完全性関係 \(|+\rangle\langle+| + |-\rangle\langle-| = \mathbf{1}\) の物理的意味を一文で述べてください。

答え

スピン 1/2 系の任意の状態は \(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の重ね合わせで完全に記述でき、この 2 つの基本状態で状態空間が尽くされていることを意味する。

📝 練習問題:


5.5 異なる方向の測定——基底の変換と確率振幅

🟡 リナ: ここまでは \(z\) 方向の Stern-Gerlach 装置だけを考えてきたわね。でも装置を回転させて、\(x\) 方向や \(y\) 方向に磁場を向けることもできる。このとき何が起きるか——ここが量子力学の核心に触れる部分よ。

\(x\) 方向の固有状態

🟡 リナ: \(x\) 方向に磁場を向けた Stern-Gerlach 装置を通すと、やはりビームは 2 つに分かれる。\(S_x = +\hbar/2\) の状態と \(S_x = -\hbar/2\) の状態ね。これらを \(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) と書くわ。

🔵 カイ: \(|+\rangle\) とは違うんですか?

🟡 リナ: 違う。\(|+\rangle\) は「\(z\) 方向に測定して上」の状態。\(|+\rangle_x\) は「\(x\) 方向に測定して上」の状態。異なる方向の測定に対応する異なる状態よ。

🟡 リナ: ここで大事な問い。\(|+\rangle_x\)\(z\) 方向の基底 \(|+\rangle\), \(|-\rangle\) で書くとどうなるか? ヒント:\(x\) 方向と \(z\) 方向は空間的に対等——どちらが「特別」ということはないわ。

🔵 カイ: 「対等」って、具体的にはどういう意味ですか?

🟡 リナ: 物理法則は空間の向きによらない——装置全体を 90° 回転させても同じ実験結果が得られるはず、ということよ。だから「\(x\) 方向にスピン上向きの粒子を \(z\) 方向で測定する」のと「\(z\) 方向にスピン上向きの粒子を \(x\) 方向で測定する」のは、本質的に同じ状況——どちらも「ある方向に確定した粒子を、それと 90° 直交する方向で測定する」ということ。対称性から、直交する方向で測定したとき上に行く理由も下に行く理由もないから——

🔵 カイ: 上と下が同じ確率——50% ずつ——になる!

🟡 リナ: その通り! 確率が \(1/2\) ということは、\(|c_+|^2 = |c_-|^2 = 1/2\) だから、係数の絶対値はどちらも \(1/\sqrt{2}\)。係数には \(e^{i\theta}/\sqrt{2}\) のように位相(角度)の自由度があるけれど、5.4「基底・正規直交性・完全性——2 次元の状態空間」 で説明したように「全体に同じ位相を掛けても物理的に区別できない」から、第 1 成分を実数の正の値に選ぶことが許されるの。ここでは最もシンプルに両方とも実数の正の値を選ぶわ:

\[|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle \tag{5.11}\]

では \(|-\rangle_x\) はどうなるか。\(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) は異なる測定結果に対応するから、互いに直交しなければならない。

🔵 カイ: 直交条件——つまり \(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) の内積が 0——を満たすように符号を決めるんですね。もし \(|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) だと \(|+\rangle_x\) と同じになっちゃうから……

🟡 リナ: そう。\(|-\rangle_x\)\(z\) 方向で測定すれば 50%-50% になるはずだから(\(x\)\(z\) の対等性は \(|-\rangle_x\) にも当てはまる)、\(|c_+|^2 = |c_-|^2 = 1/2\) で係数の絶対値はどちらも \(1/\sqrt{2}\)。実数で書くと \(|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{b}{\sqrt{2}}|-\rangle\)\(b\)\(\pm 1\))と置ける。直交条件を使って \(b\) を決めてみて。やり方は、さっき \(\langle+|\psi\rangle\) を計算したのと同じ——内積の線形性を使って展開し、式 (5.6), (5.7) の正規直交性で各項を評価するの。

🔵 カイ: えーと、\({}_x\langle+|-\rangle_x\) を計算すればいいんですよね。\(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) だから……ブラにするとき係数はどうなるんですか?

🟡 リナ: 一般にはケットの係数の複素共役を取るの——これは 「要点 1:状態はベクトル」 で詳しく説明するわ。でも今回は係数が \(1/\sqrt{2}\) という実数だから、複素共役を取っても値が変わらない。だからそのまま \({}_{x}\langle+| = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+| + \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|\) と書けるの。

🔵 カイ: なるほど。じゃあこれを \(|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{b}{\sqrt{2}}|-\rangle\) に作用させると……\(\frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{b}{\sqrt{2}}\langle+|-\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{b}{\sqrt{2}}\langle-|-\rangle\)。正規直交性で \(\langle+|+\rangle = \langle-|-\rangle = 1\)\(\langle+|-\rangle = \langle-|+\rangle = 0\) だから、\(\frac{1}{2} + \frac{b}{2} = 0\)……\(b = -1\) ですね!

🟡 リナ: 完璧。つまり:

\[|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle \tag{5.12}\]

🔵 カイ: なるほど、符号が違うのは直交条件から必然的に決まるんですね。

🔵 カイ: 式で書くとシンプルだけど、改めて考えると不思議ですね。\(x\) 方向に「確実に上向き」なのに、\(z\) 方向で測ると完全に五分五分になるなんて。

🟡 リナ: そう。係数が \(1/\sqrt{2}\) だから、\(|1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\)。つまり、\(x\) 方向にスピンが上向きの粒子を \(z\) 方向で測定すると、\(+\hbar/2\)\(-\hbar/2\)等確率——50% ずつ——で出る。

🔵 カイ: 係数がどっちも \(1/\sqrt{2}\) だから完全に半々……つまり \(x\) 方向が確定してるのに、\(z\) 方向は何も分からない状態ってことですか?

🟡 リナ: その通り。これが量子力学の本質的な特徴よ。\(S_x\)\(S_z\)同時に確定値を持つことができない。一方を確定させると、他方は完全に不確定になるの。

✅ 理解度チェック: \(|+\rangle_x\)\(x\) 方向スピン上向き)の粒子に対して \(S_z\) を測定すると、結果はどうなるでしょうか? その理由を状態の重ね合わせの観点から説明してみましょう。

答え

\(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) なので、\(S_z = +\hbar/2\)\(S_z = -\hbar/2\) がそれぞれ確率 \(|1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\) で得られる。\(x\) 方向のスピンが確定しているとき、\(z\) 方向の情報は完全に不確定になる。

\(y\) 方向の固有状態

🟡 リナ: \(y\) 方向の場合はどうなるか。\(x\) 方向と同じ論理で考えてみましょう。\(y\)\(z\) も空間的に対等だから、\(|+\rangle_y\)\(z\) 方向で測定すると 50%-50%——つまり係数の絶対値はどちらも \(1/\sqrt{2}\)。そして \(|+\rangle_y\)\(|-\rangle_y\) は直交しなければならない。

🔵 カイ: \(x\) 方向のときと同じ条件ですね。でも \(x\) 方向では \(+1/\sqrt{2}\)\(-1/\sqrt{2}\) で解決したのに、\(y\) 方向は何が違うんですか?

🟡 リナ: いい疑問。実は \(|+\rangle_y\)\(|+\rangle_x\) とも \(|-\rangle_x\) とも異なる状態でなければならないの。なぜなら、\(y\) 方向と \(x\) 方向も空間的に直交する方向——\(z\)\(x\) が直交しているのと同じ関係——だから、さっき「\(z\)\(x\) が直交 → 50%-50%」と論じたのと全く同じ理由で、\(y\) 方向に確定した粒子を \(x\) 方向で測っても 50%-50% になるはず。もし \(|+\rangle_y\)\(|+\rangle_x\) と同じ状態だったら、\(x\) 方向で測定すると 100% で \(+\hbar/2\) が出てしまい、50%-50% にならないでしょう? 同様に、もし \(|+\rangle_y\)\(|-\rangle_x\) と同じ状態だったら、\(x\) 方向で測定すると 100% で \(-\hbar/2\) が出てしまう——やはり 50%-50% にならない。だから \(|+\rangle_y\)\(|+\rangle_x\) とも \(|-\rangle_x\) とも異なる状態でなければならない。ところが、係数の絶対値が \(1/\sqrt{2}\) で実数だけを使う正規直交ペアを探してみましょう。各係数は \(\pm 1/\sqrt{2}\) のどれかだから、候補は \((+1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\)\((+1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\)\((-1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\)\((-1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\) の 4 つ。

🔵 カイ: 4 つもあるなら、\(x\) 方向と違う組み合わせが作れそうですけど……

🟡 リナ: ところがそうはいかないの。思い出して——さっき 5.4「基底・正規直交性・完全性——2 次元の状態空間」 で「全体に同じ位相 \(e^{i\theta}\) を掛けても確率が変わらないから物理的に同じ状態」と言ったわよね。Euler の公式で \(\theta = \pi\) とすると \(e^{i\pi} = \cos\pi + i\sin\pi = -1\) だから、\(-1\) を掛けることは「位相 \(\pi\)\(e^{i\theta}\) を掛ける」ことと同じ——つまり \(-1\) も位相の一種なの。だから状態全体に \(-1\) を掛けても物理的に区別できない。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。\(-1\) が「位相」だっていうのが直感的にピンと来ないんですが……\(-1\) って普通の実数ですよね?

🟡 リナ: いい疑問ね。ポイントは「絶対値が 1 の複素数はすべて位相因子と呼ぶ」ということよ。\(e^{i\theta}\) の形の複素数は常に \(|e^{i\theta}| = 1\) を満たす——これは 第 4 章で確認したわね。逆に、絶対値が 1 の複素数は必ず \(e^{i\theta}\) の形に書ける。\(-1\)\(|-1| = 1\) を満たすから、\(-1 = e^{i\pi}\) と書ける立派な位相因子なの。確率は \(|c|^2\) で計算するから、\(|(-1) \times c|^2 = |-1|^2 |c|^2 = 1 \times |c|^2 = |c|^2\)——全く変わらない。

🔵 カイ: あ、なるほど。つまり \((-1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\)\((+1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\) の全体に \(-1\) を掛けただけだから、確率的には全く同じ状態ってことですか?

🟡 リナ: その通り。確認してみて——\(|-1/\sqrt{2}|^2 = |1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\) だから、\(z\) 方向で測定しても \(x\) 方向で測定しても確率が全く同じになるの。2 つの状態を区別する実験が原理的に存在しない——だから物理的に「同じ状態」とみなすのよ。同様に \((-1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\)\((+1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\) の全体に \(-1\) を掛けたもの——確認してみて、\((-1) \times (1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2}) = (-1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\) でしょう? 確率は \(|-1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\), \(|1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\) で全く同じ。さっきと同じ理由で物理的に同じ状態ね。

つまり、全体位相の自由度を使えば、4 つの候補のうち第 1 成分を正に選ぶことができる——例えば \((-1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\) には全体に \(-1\) を掛けて \((+1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\) に、\((-1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\) には全体に \(-1\) を掛けて \((+1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\) にできるわ。そうすると物理的に区別できる状態は \((+1/\sqrt{2}, +1/\sqrt{2})\)\((+1/\sqrt{2}, -1/\sqrt{2})\) の 2 つだけ——これはまさに \(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) よ。つまり実数の範囲では \(x\) 方向の基底しか作れない。

⚪ メイ: 実数だけでは新しい方向を表せない——だから複素数が本質的に必要になるのね。

🟡 リナ: その通り。だから \(y\) 方向を表すには複素数が本質的な役割を果たす:

\[|+\rangle_y = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{i}{\sqrt{2}}|-\rangle \tag{5.13}\]
\[|-\rangle_y = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle - \frac{i}{\sqrt{2}}|-\rangle \tag{5.14}\]

🔵 カイ: \(i\) が出てきた! 虚数単位ですよね。なるほど、\(|i/\sqrt{2}|^2 = 1/2\) だから確率の条件は満たすし、\(x\) 方向の状態とは位相が違うから区別できる。

🟡 リナ: そう。\(x\) 方向では係数が実数だったのに、\(y\) 方向では虚数 \(i\) が現れる。これは偶然じゃない。3 次元空間の 3 つの独立な方向を 2 次元複素空間で表すには、実数だけでは足りなくて、複素数が必要なの。量子力学の世界が「複素確率振幅でできている」ことの具体的な現れよ。

⚪ メイ: つまり、\(x\) 方向でも \(y\) 方向でも \(z\) 方向で測れば 50%-50%——確率だけでは \(|+\rangle_x\)\(|+\rangle_y\) を区別できないのね。区別するには確率ではなく振幅の位相を見る必要がある、ということ?

🟡 リナ: まさにそう。確率だけ見ると同じ。でも振幅の位相が違う——\(1/\sqrt{2}\)\(i/\sqrt{2}\) は絶対値は同じだけど位相が \(90°\) ずれている。この位相の違いが、干渉実験をすると現れてくるの。

🔵 カイ: なるほど……確率だけでは区別できないけど、振幅——つまり位相まで含めた情報——では区別できると。

🟡 リナ: そう。だから量子力学は「確率」ではなく「確率振幅」を基本に置くのよ。

✅ 理解度チェック: \(y\) 方向の固有状態の係数に虚数 \(i\) が現れることは、確率の計算に影響するでしょうか? また、\(x\) 方向の固有状態との違いはどこに現れるでしょうか?

答え

確率の計算には影響しない(\(|i/\sqrt{2}|^2 = 1/2\)\(x\) 方向と同じ)。しかし振幅の位相が \(90°\) 異なるため、干渉実験など位相が関わる状況では \(x\) 方向と \(y\) 方向の固有状態の違いが現れる。

基底変換の行列表現

🟡 リナ: 式 (5.11)–(5.12) を行列の形にまとめてみましょう。この行列は「\(x\) 基底で書かれた状態を \(z\) 基底に変換する」役割を持つの。各成分は「行に対応する \(z\) 基底のブラ」と「列に対応する \(x\) 基底のケット」の内積よ。具体的にやってみるわね。第 1 行・第 1 列の成分は \(\langle+|+\rangle_x\)——\(z\) 基底のブラ \(\langle+|\)\(x\) 基底のケット \(|+\rangle_x\) の内積。式 (5.11) から \(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) なので、\(\langle+|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 1 + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 0 = \frac{1}{\sqrt{2}}\)。同様に第 2 行・第 1 列は \(\langle-|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}\)。この要領で全成分を並べると:

\[\begin{pmatrix} \langle+|+\rangle_x & \langle+|-\rangle_x \\ \langle-|+\rangle_x & \langle-|-\rangle_x \end{pmatrix} = \frac{1}{\sqrt{2}}\begin{pmatrix} 1 & 1 \\ 1 & -1 \end{pmatrix} \tag{5.15}\]

🔵 カイ: 各成分が振幅になってるんですね。\((1,1)\)\(1/\sqrt{2}\) は具体的に何を意味するんですか?

🟡 リナ: \(\langle+|+\rangle_x = 1/\sqrt{2}\) は、「\(x\) 方向スピン上向きの粒子を \(z\) 方向で測定して上向きを得る振幅」よ。この行列全体が基底変換行列——ある基底から別の基底への「翻訳辞書」——の役割を果たすの。

🔵 カイ: これって、ベクトルの成分を別の座標軸で書き直すときの変換を行列にしたもの、ってことですか?

🟡 リナ: そう。ただし普通の実数の行列と違って、成分が複素数になりうるの。複素数の成分を持つこの種の行列はユニタリ行列 (unitary matrix) という特別な性質を持っていて、確率の合計が 1 に保たれることを保証する行列よ。詳しくは 第 11 章で扱うけれど、今は「基底の変換は行列で書ける」ということを覚えておいて。

🔵 カイ: 「ユニタリ」って何ですか? 普通の回転行列とどう違うんですか?

🟡 リナ: 回転行列は「実数の成分で、長さを保つ行列」だったわよね。ユニタリ行列はその複素数版——「複素数の成分で、ベクトルの長さ(= 確率の合計)を保つ行列」よ。名前だけ覚えておけば十分。中身は 第 11 章で丁寧にやるわ。

✅ 理解度チェック: 状態 \(|+\rangle\)\(z\) 方向スピン上向き)の粒子を \(x\) 方向の Stern-Gerlach 装置に通したとき、\(S_x = +\hbar/2\) を得る確率はいくらでしょうか?

答え

\(|\langle+|+\rangle_x|^2\) を求めたいが、これは \(|{}_x\langle+|+\rangle|^2\) と同じ。式 (5.11) の逆——\(|+\rangle\)\(x\) 基底で展開すると、\(|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle_x + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle_x\) となる(式 (5.11), (5.12) を逆に解く)。よって \({}_x\langle+|+\rangle = 1/\sqrt{2}\)、確率は \(1/2\)

📝 練習問題:

  • 式 (5.13) が規格化されていること(\({}_y\langle+|+\rangle_y = 1\))と、\(|+\rangle_y\)\(|-\rangle_y\) が直交すること(\({}_y\langle+|-\rangle_y = 0\))を確認せよ → 問題 B-3. 外積(射影演算子)の作用

5.6 連続 Stern-Gerlach 実験——量子力学の核心

🟡 リナ: さて、ここまでの道具立てを使って、量子力学の最も驚くべき特徴を見ていくわ。連続 Stern-Gerlach 実験よ。

実験 1:同じ方向を 2 回測定

🟡 リナ: まず最もシンプルな場合。\(z\) 方向の装置で \(|+\rangle\) を選び出し、すぐに同じ \(z\) 方向の装置に通す。

🔵 カイ: 当然、全部上に行きますよね? 一度「上」と確認したんだから。

🟡 リナ: そう。確率振幅は \(\langle+|+\rangle = 1\)。確率 100% で再び \(+\hbar/2\) が得られる。これは古典的直感とも一致するわね。

実験 2:\(z\)\(x\)\(z\) の 3 段測定

🟡 リナ: 次が核心。3 つの装置を並べるの:

  1. 第 1 装置 (\(z\) 方向): \(|+\rangle\) だけを通す
  2. 第 2 装置 (\(x\) 方向): \(|+\rangle_x\) だけを通す
  3. 第 3 装置 (\(z\) 方向): \(|+\rangle\) を通すか観測

🔵 カイ: えーと、最初に \(z\) 方向で上向きを確認して、次に \(x\) 方向で上向きを確認して、最後にまた \(z\) 方向で測定する……最初と最後で同じ測定だから、全部通り抜けるんじゃないですか?

🟡 リナ: 古典的にはそう期待するわよね。でも量子力学の答えは——半分しか通り抜けない

🔵 カイ: えっ!? 最初に「\(z\) 上向き」って確認したのに!?

🟡 リナ: 計算してみましょう。ポイントは、第 2 装置が \(|-\rangle_x\)ブロックしている——つまり「\(|+\rangle_x\) を通った」ことが確定する測定をしている、ということよ。

第 4 章で学んだルールを思い出して。「途中でどの経路を通ったか確定させない(区別できない)」場合は振幅を足す。でも今回のように途中で測定して経路が確定した——つまり \(|-\rangle_x\) をブロックして「\(|+\rangle_x\) を通った」と分かる——場合はどうなるか。ブロックによって経路が 1 本に絞られるから、第 4 章の第 3 のルール(連続した過程の振幅は掛ける)をそのまま適用できるわ。全体の振幅は各段階の振幅の積:

\[{}_x\langle+|+\rangle \times \langle+|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}} \times \frac{1}{\sqrt{2}} = \frac{1}{2}\]

確率はその絶対値の 2 乗 \(|1/2|^2 = 1/4\)。ここで「各段階の通過確率 \(1/2\) を掛け合わせた \(1/2 \times 1/2 = 1/4\)」とも一致しているわね。実はこれは偶然ではないの——経路が 1 本しかないときは、\(|A \times B|^2 = |A|^2 \times |B|^2\) という絶対値の性質から、「振幅を掛けてから 2 乗する」のと「確率を掛ける」のが常に同じ結果になるの。でも経路が2 本以上あって振幅を足す場合は話が違う——\(|A + B|^2 \neq |A|^2 + |B|^2\) だから、干渉項が現れて結果が変わるのよ。実験 3 で「ブロックしない」場合——つまり 2 本の経路が共存して干渉する場合——と比較すると、この違いがもっとはっきりするわ。

🔵 カイ: なぜ途中で測定すると「確率を掛ける」に変わるんですか? 第 3 のルールは「振幅を掛ける」でしたよね?

🟡 リナ: いい質問。ポイントは「ブロックすると経路が 1 本になる」ことよ。二重スリットを思い出して——片方のスリットを塞いだら干渉縞は消えるわよね? 干渉には「2 つの経路の振幅を足す」ことが必要だけど、片方をブロックしたら足す相手がいない。だから干渉は起きない。

🔵 カイ: なるほど。でも「干渉が起きない」ことと「確率を掛ける」ことはどう繋がるんですか?

🟡 リナ: こう考えて。第 2 装置を通過した時点で、粒子の状態は \(|+\rangle_x\) に確定する——元の \(|+\rangle\) だったという「記憶」は消えているの。だから第 3 装置に入る粒子にとっては、第 1 装置のことは無関係——新しい実験が始まったのと同じ。各段階が独立な事象になるから、確率を掛け合わせるのが正しいルールよ。

🔵 カイ: 「記憶が消える」……つまり、第 2 装置を通った後は「最初に \(z\) 上向きだった」という情報が完全に失われて、\(|+\rangle_x\) という状態からやり直しになるんですね。

🟡 リナ: そう。式で確認すると分かりやすいわ——\(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) だから、\(z\) 方向の情報は「上と下が半々」にリセットされている。元が \(|+\rangle\) だったという痕跡は、この式のどこにも残っていないでしょう? これが「記憶が消える」の数学的な意味よ。具体的に計算すると:

  • 第 1 段階:状態 \(|+\rangle\) が第 2 装置を \(|+\rangle_x\) として通過する振幅は \({}_x\langle+|+\rangle = 1/\sqrt{2}\)、確率は \(1/2\)
  • 第 2 段階:状態 \(|+\rangle_x\) が第 3 装置を \(|+\rangle\) として通過する振幅は \(\langle+|+\rangle_x = 1/\sqrt{2}\)、確率は \(1/2\)

一言でまとめると:途中で状態が確定すると、それ以前の位相情報が消える。位相が消えれば干渉は起きない。干渉が起きなければ、確率を独立に掛け合わせるのが正しいルール

⚪ メイ: つまり、ブロックしない場合は「\(|+\rangle_x\) を通る振幅」と「\(|-\rangle_x\) を通る振幅」の 2 つが共存していて干渉が起きる。でも片方をブロックすると経路が 1 本になり、干渉の相手がいなくなるのね。実験 3 で「ブロックしない」場合と比べると、この違いがはっきり見えそう。

では具体的に計算するわね。第 1 装置を通過した後の状態は \(|+\rangle\)

ステップ 1:第 2 装置(\(x\) 方向)を \(|+\rangle_x\) として通過する確率。振幅は:

\[{}_x\langle+|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \tag{5.16}\]

(計算の確認:式 (5.11) から \(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) なので、対応するブラは \({}_x\langle+| = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+| + \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|\)(係数が実数なので複素共役を取っても変わらない)。これを \(|+\rangle\) に作用させると \({}_x\langle+|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 1 + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 0 = 1/\sqrt{2}\)。なお、一般には \(\langle\alpha|\beta\rangle = \langle\beta|\alpha\rangle^*\)(内積の順番を入れ替えると複素共役になる)が成り立つけれど、今回は係数がすべて実数なので \(\langle+|+\rangle_x = {}_x\langle+|+\rangle = 1/\sqrt{2}\) と順番によらず同じ値になるわ。)

よって通過確率は \(|1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\)。通過した粒子の状態は \(|+\rangle_x\) に確定する。

ステップ 2:第 3 装置(\(z\) 方向)を \(|+\rangle\) として通過する確率。状態 \(|+\rangle_x\) から \(|+\rangle\) が見出される振幅は:

\[\langle+|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}} \tag{5.17}\]

よって通過確率は \(|1/\sqrt{2}|^2 = 1/2\)

全体の通過確率:第 2 装置を通過した時点で状態が \(|+\rangle_x\) にリセットされるから、ステップ 1 とステップ 2 は互いに独立な確率的事象。独立な事象の確率は積で求まる:

\[\frac{1}{2} \times \frac{1}{2} = \frac{1}{4} \tag{5.18}\]

つまり、最初に \(z\) 上向きと確認した粒子の 4 分の 1 しか、最後に \(z\) 上向きとして出てこない

🔵 カイ: 残りの \(3/4\) はどこに行ったんですか?

🟡 リナ: 第 2 装置で全体の半分が \(|-\rangle_x\) としてブロックされ(\(1/2\) が消える)、残った \(1/2\) のうちさらに半分が第 3 装置で \(|-\rangle\) として下に曲がる(全体の \(1/4\) が消える)。合計 \(1/2 + 1/4 = 3/4\) が途中で除かれるの。

⚪ メイ: つまり、途中で \(x\) 方向の測定を挟んだことで、最初に確定していた \(z\) 方向の情報が壊されたということね。

🟡 リナ: まさにそう。これが量子力学における測定の本質よ。Feynman の言葉を借りれば:

ひとたび別の方向で測定されてしまったら、粒子は以前の状態を「記憶していない」

🔵 カイ: でもなんで? 測定って、ただ「見る」だけじゃないんですか?

🟡 リナ: 量子力学では、測定は系の状態を変えるの。第 2 装置で \(|+\rangle_x\) だけを通したということは、状態を \(|+\rangle_x\)再準備したということ。そして \(|+\rangle_x\)\(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の等しい重ね合わせだから、\(z\) 方向の情報は完全にリセットされてしまう。

🔵 カイ: ……つまり、「\(x\) 方向で選別する」という行為自体が、\(z\) 方向の状態を \(|+\rangle\)\(|-\rangle\) の半々に戻してしまう。だから最後の \(z\) 測定で半分しか通らない。「見る」ことが状態を書き換えるんですね。……でも、もし「そっと見る」——つまり状態を壊さずに情報だけ得る方法があったりしないんですか?

🟡 リナ: 鋭い疑問ね。でも量子力学では、スピンの方向を知るためには必ず装置と相互作用させる必要があって、その相互作用が状態を変えてしまう。「壊さずに測る」ことの限界は、不確定性関係として 第 8 章で定量的に議論するわ。

🔵 カイ: 分かりました。今は「測定は状態を変える」ということを受け入れて先に進みます。

✅ 理解度チェック: 連続 Stern-Gerlach 実験で、途中の \(x\) 方向測定が \(z\) 方向の情報を「破壊する」のはなぜでしょうか?

答え

\(x\) 方向で \(|+\rangle_x\) を選別すると、状態が \(|+\rangle_x\) に再準備される。\(|+\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) であるため、\(z\) 方向のスピンは \(+\hbar/2\)\(-\hbar/2\) が等確率の重ね合わせとなり、最初に確定していた \(z\) 方向の情報が完全にリセットされる。

実験 3:\(x\) 方向のすべてのビームを通す場合

🟡 リナ: 比較のために、第 2 装置で何もブロックしない場合を考えてみましょう。\(x\) 方向の装置を通すけれど、\(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) も両方通す。

🔵 カイ: 何もブロックしないなら、装置がないのと同じじゃないですか?

🟡 リナ: その通り! 直感的にはそうね。でも大事なのは、「振幅を足し合わせる」という計算で本当にそうなることを確認すること——実験 2 との違いが数式のどこに現れるかを見届けたいの。第 4 章の振幅のルールで言えば、\(|+\rangle\)\(x\) 基底で展開すると:

\[|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle_x + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle_x \tag{5.19}\]

(式 (5.11) と (5.12) を足すと \(|+\rangle_x + |-\rangle_x = \left(\frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\right) + \left(\frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\right) = \frac{2}{\sqrt{2}}|+\rangle = \sqrt{2}|+\rangle\)。両辺を \(\sqrt{2}\) で割ると \(|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|+\rangle_x + |-\rangle_x)\) が得られる。)

そして実は完全性関係は \(z\) 基底だけでなく、どの正規直交基底でも成り立つの。理由は同じ——\(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) も正規直交で、この 2 つで 2 次元空間のすべてを張っているから、任意の状態をこの 2 つに射影して足せば元に戻る。ここで \({}_x\langle+|\)\(|+\rangle_x\) に対応するブラ、\({}_x\langle-|\)\(|-\rangle_x\) に対応するブラよ(\(z\) 基底のときの \(\langle+|\)\(|+\rangle\) のブラだったのと同じ関係ね)。\(x\) 基底での完全性関係を式で書くと:

\[|+\rangle_x {}_x\langle+| + |-\rangle_x {}_x\langle-| = \mathbf{1} \tag{5.20}\]

これは「\(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) の 2 つでも状態空間を尽くしている」ことの表現よ。すべてのビームを通すということは、恒等演算子 \(\mathbf{1}\) を作用させること——つまり何もしないこと——と等価なの。この場合、第 3 装置では 100% 通過する。

⚪ メイ: なるほど。ブロックするから状態が変わるのであって、すべて通せば状態は変わらない——式 (5.20) がそれを保証しているのね。

🔵 カイ: 「全部通す」と「何もしない」が同じ……でもそれを振幅の計算で確認するとどうなるんですか? 実験 2 では \(1/4\) だったのに、本当に \(1\) に戻るのか気になります。

🟡 リナ: いい質問。具体的にやってみましょう。第 2 装置で両方通した後、第 3 装置で \(|+\rangle\) が得られる全振幅を計算するわ。第 4 章の第 2 のルールを思い出して——「区別できない経路の振幅を足す」。今回、粒子は第 2 装置で \(|+\rangle_x\) を通る経路と \(|-\rangle_x\) を通る経路の 2 つがあるけれど、どちらもブロックされていないから区別できない。だから 2 つの経路の振幅を足し合わせるの。

数学的には、「何もブロックしない」ことは恒等演算子 \(\mathbf{1}\) を挟むことと同じ。そこに式 (5.20) の完全性関係を代入すると、ちょうど「2 つの経路の振幅を足す」形が自動的に出てくるわ:

\[\langle+|\mathbf{1}|+\rangle = \langle+|\left(|+\rangle_x{}_{x}\langle+| + |-\rangle_x{}_{x}\langle-|\right)|+\rangle = \langle+|+\rangle_x \cdot {}_x\langle+|+\rangle + \langle+|-\rangle_x \cdot {}_x\langle-|+\rangle\]

各因子を式 (5.11), (5.12) から読み取るわね。\(\langle+|+\rangle_x\) は「状態 \(|+\rangle_x\) にある粒子を \(z\) 方向で測定して \(|+\rangle\) を得る振幅」だから \(1/\sqrt{2}\)\({}_x\langle+|+\rangle\) は「状態 \(|+\rangle\) にある粒子を \(x\) 方向で測定して \(|+\rangle_x\) を得る振幅」で同じく \(1/\sqrt{2}\)

🔵 カイ: 残りの 2 つも同じように?

🟡 リナ: そう。\(\langle+|-\rangle_x\) を計算するわ。式 (5.12) から \(|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) なので:

\[\langle+|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 1 - \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 0 = \frac{1}{\sqrt{2}}\]

次に \({}_x\langle-|+\rangle\)——「\(|+\rangle\)\(|-\rangle_x\) として見出される振幅」——を求めるわ。一般には \(\langle\alpha|\beta\rangle = \langle\beta|\alpha\rangle^*\)(内積の順番を入れ替えると複素共役になる)が成り立つから、\(\langle+|-\rangle_x\) が分かれば \({}_x\langle-|+\rangle = \langle+|-\rangle_x^*\) で求まる。今回は \(\langle+|-\rangle_x = 1/\sqrt{2}\) が実数だから、\({}_x\langle-|+\rangle = (1/\sqrt{2})^* = 1/\sqrt{2}\) と直ちに分かるわ。念のため直接計算でも確認しておくわね。式 (5.12) から \(|-\rangle_x = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle\) なので、対応するブラは \({}_x\langle-| = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+| - \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|\)(係数が実数なので複素共役は不要)。これを \(|+\rangle\) に作用させると:

\[{}_x\langle-|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}\langle+|+\rangle - \frac{1}{\sqrt{2}}\langle-|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 1 - \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot 0 = \frac{1}{\sqrt{2}}\]

確かに \(\langle+|-\rangle_x^* = 1/\sqrt{2}\) と一致するわね。(別の方法:式 (5.19) で \(|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}|+\rangle_x + \frac{1}{\sqrt{2}}|-\rangle_x\) と展開し、\(x\) 基底の正規直交性を使っても同じ結果が得られるわ。)

🔵 カイ: 全部 \(1/\sqrt{2}\) なんですね。じゃあ代入すると……

したがって:

\[\langle+|\mathbf{1}|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{1}{\sqrt{2}} + \frac{1}{\sqrt{2}} \cdot \frac{1}{\sqrt{2}} = \frac{1}{2} + \frac{1}{2} = 1 \tag{5.21}\]

🔵 カイ: おお、ちゃんと 1 になった! 2 つの経路の振幅を足すと 1 に戻る。でも待ってください——さっきの実験 2 では確率を掛けて \(1/2 \times 1/2 = 1/4\) にしましたよね。ここでは振幅を掛けてから足してる。この違いは「途中で測定したかどうか」ですか?

🟡 リナ: その通り! 実験 2 では第 2 装置が \(|-\rangle_x\) をブロックした——つまり「どちらを通ったか」が確定した。だから各段階で確率を取って掛けた。でも今回は両方通しているから「どちらを通ったか分からない」——だから振幅を足し合わせるの。この 2 つの実験の違いは、後で図にまとめて比較するわ。

🟡 リナ: でも片方をブロックすると——実験 2 で見たように——干渉が消えて確率は \(1/4\) に落ちる。

🔵 カイ: これって二重スリット実験と同じ構造ですね! 片方のスリットを閉じると干渉パターンが消える。でも二重スリットでは「空間的に離れた 2 つの経路」だったのに、ここでは「スピンの内部状態」という目に見えないものが干渉してる——干渉って空間的な経路に限らないんですか?

🟡 リナ: まさにそう。これが 第 4 章で学んだ Feynman の法則の普遍性よ——「区別できない経路の振幅を足す → 干渉」「区別した → 確率を掛ける → 干渉なし」。干渉が起きるかどうかを決めるのは、経路が空間的に分かれているかではなく、区別可能かどうか——この一点に集約されるの。

⚪ メイ: つまり、Stern-Gerlach の連続実験は「スピンの世界での二重スリット実験」ね。しかも完全性関係 \(|+\rangle_x{}_{x}\langle+| + |-\rangle_x{}_{x}\langle-| = \mathbf{1}\) が「全部通す=何もしない」を数学的に保証しているから、干渉が完全に復活する理由も明確だわ。

🔵 カイ: 実験 1 と 2 と 3 の装置の違いを一目で比較できる図はありますか?

🟡 リナ: 図 5.2「連続Stern-Gerlach実験の比較」 を見て。(a) は最初のセクションで見た基本の Stern-Gerlach 実験——炉から出たビーム(スピンの向きがランダムな無選別状態)が 2 つに分裂する様子。(b) が実験 1——SG\(_z\)\(|+\rangle\) を選んで再び SG\(_z\) に通すと 100% 通過。(c) が実験 2——間に SG\(_x\) を挟んで \(|+\rangle_x\) だけを選ぶと、最後の SG\(_z\) で再び 50:50 に戻る。\(x\) 方向の測定が \(z\) 方向の情報を消していることが一目で分かるわ。実験 3(ブロックなし)との比較は、この後すぐ別の図で見せるわね。

連続Stern-Gerlach実験の比較

図 5.2: 連続Stern-Gerlach実験の比較。3 つの実験設定の比較。(a) 炉から出た無選別のビーム(スピンの向きがランダム)を SG\(_z\) に通すと 2 つのスポットに分裂。(b) SG\(_z\)\(|+\rangle\) を取り出し再び SG\(_z\) を通すと 100% 通過(実験 1)。(c) 間に SG\(_x\) を挟んで \(|+\rangle_x\) だけを選ぶと、最後の SG\(_z\) で再び 50:50 になる——\(x\) 方向の測定が \(z\) 方向の情報を消している(実験 2)。 {: #fig-qm-ch5-sequential-stern-gerlach } 🔵 カイ: 実験 2 と実験 3 の違いを一目で比較できる図もありますか?

🟡 リナ: 図 5.3「干渉とブロックの比較」 を見て。左側が実験 2——片方をブロックした場合で、各段階の確率を掛け合わせて全体 \(1/4\)。右側が実験 3——ブロックなしの場合で、2 つの経路の振幅を足し合わせると干渉して通過確率が \(1\) に戻る。

干渉とブロックの比較

図 5.3: 干渉とブロックの比較。左: 実験 2(片方ブロック)では各段階で確率を掛け合わせ、全体の通過確率は \(1/4\)。右: 実験 3(ブロックなし)では 2 つの経路の振幅を足し合わせ、干渉により通過確率は \(1\)(100%)になる。

⚪ メイ: この図を見ると、左と右で「振幅を足す」か「確率を掛ける」かの違いが一目瞭然ね。結果が \(1/4\)\(1\) でこれだけ違うのは、途中で測定したかどうかだけの差なのね。

🟡 リナ: そう。この図が示すように、「途中で測定したか否か」が結果を劇的に変える。二重スリットでは「スリット A を通る経路」と「スリット B を通る経路」の振幅が干渉した。ここでは「\(|+\rangle_x\) を通る経路」と「\(|-\rangle_x\) を通る経路」の振幅が干渉して結果を決める。片方をブロックすれば干渉が消え、結果が変わる——構造は全く同じよ。そして式 (5.20) の完全性関係が「全部通す=何もしない」を数学的に保証しているから、干渉が完全に復活する理由も明確ね。

⚪ メイ: つまり、二重スリットでの「スリット A / B」が、ここでは「\(|+\rangle_x\) / \(|-\rangle_x\)」に対応しているだけで、構造は同じということね。

✅ 理解度チェック: 第 2 装置(\(x\) 方向)で何もブロックせず全てのビームを通した場合、完全性関係の観点からこの操作は何に等しいでしょうか?

答え

\(|+\rangle_x{}_{x}\langle+| + |-\rangle_x{}_{x}\langle-| = \mathbf{1}\)(恒等演算子)であるため、全てのビームを通すことは「何もしない」ことと等価である。したがって状態は変化せず、最終的に \(|+\rangle\) が 100% の確率で得られる。

✅ 理解度チェック: \(z\)\(x\)\(z\) の連続実験で、第 2 装置(\(x\) 方向)で \(|+\rangle_x\) のみを通した場合と、何もブロックしなかった場合で、最終的に \(|+\rangle\) が得られる確率はそれぞれいくらでしょうか?

答え

\(|+\rangle_x\) のみ通した場合:第 2 装置通過確率 \(1/2\)、第 3 装置通過確率 \(1/2\)、全体で \(1/4\)。何もブロックしなかった場合:振幅が干渉して合計 1 になり、確率 \(1\)(100% 通過)。

📝 練習問題:


5.7 状態空間の構造——Hilbert 空間の萌芽

🟡 リナ: ここまでの議論を振り返って、量子力学の数学的構造がどんなものか整理してみましょう。

🔵 カイ: お願いします。色々出てきて少し混乱してます。

🟡 リナ: 大丈夫。要点は 4 つよ。

要点 1:状態はベクトル

🟡 リナ: スピン 1/2 粒子の状態は、2 つの複素数 \((c_+, c_-)\) の組で指定される。これは 2 次元の複素ベクトル空間の要素——つまりベクトル——よ。

\[|\psi\rangle = c_+|+\rangle + c_-|-\rangle \quad \doteq \quad \begin{pmatrix} c_+ \\ c_- \end{pmatrix} \tag{5.22}\]

右辺は列ベクトル表示\(|+\rangle\)\(\begin{pmatrix} 1 \\ 0 \end{pmatrix}\)\(|-\rangle\)\(\begin{pmatrix} 0 \\ 1 \end{pmatrix}\) と対応させたものよ。

🔵 カイ: なんで \(=\) じゃなくて \(\doteq\) を使うんですか?

🟡 リナ: いい質問。\(|\psi\rangle\) は抽象的な状態ベクトルで、基底の選び方によらない「本体」。一方、列ベクトル \(\begin{pmatrix} c_+ \\ c_- \end{pmatrix}\)\(z\) 基底を選んだときの「成分表示」——もし \(x\) 基底を選べば成分の数値は変わるわ。だから「基底を選んだ上での表示」という意味を込めて \(\doteq\) を使うの。地図の投影法を変えると同じ地形でも見た目が変わるのと似ているわね。以降もこの記号を使っていくわ。

🔵 カイ: ブラ \(\langle\psi|\) は列ベクトルとどう対応するんですか?

🟡 リナ: ブラは行ベクトルで、成分の複素共役を取ったものよ。複素共役というのは、第 4 章で出てきたように、複素数 \(z = a + bi\) に対して虚部の符号を反転させた \(z^* = a - bi\) のことね:

\[\langle\psi| \doteq (c_+^*,\; c_-^*)\]

🟡 リナ: なぜ複素共役を取るかというと、そうしないと「自分自身との内積」が正の実数にならないからよ。試しに \(\langle\psi|\psi\rangle\) を計算すると \(c_+^* c_+ + c_-^* c_- = |c_+|^2 + |c_-|^2\)——ここで \(c^* c = |c|^2\)プロローグで確認した関係ね。これは確率の合計だから、必ず正の実数でなければならない。もし複素共役を取らずに \(c_+ \cdot c_+ + c_- \cdot c_-\) としたら、\(c_+\) が複素数のとき負や虚数になりうるでしょう?

🔵 カイ: なるほど、確率が正の実数になるために複素共役が必要なんですね。

🟡 リナ: そう。一般に内積は \(\langle\phi|\psi\rangle = \phi_1^* \psi_1 + \phi_2^* \psi_2\) ——左側の成分の複素共役と右側の成分を掛けて足すの。行列の言葉で言えば、行ベクトル \((\phi_1^*,\; \phi_2^*)\) と列ベクトル \(\begin{pmatrix} \psi_1 \\ \psi_2 \end{pmatrix}\) の積よ。

🔵 カイ: ちょっと確認させてください。例えば \(|\psi\rangle \doteq \begin{pmatrix} 1/\sqrt{2} \\ i/\sqrt{2} \end{pmatrix}\) だったら、\(\langle\psi| \doteq (1/\sqrt{2},\; -i/\sqrt{2})\) になるんですか? \(i\) の複素共役が \(-i\) だから。

🟡 リナ: 完璧。そして \(\langle\psi|\psi\rangle = (1/\sqrt{2})(1/\sqrt{2}) + (-i/\sqrt{2})(i/\sqrt{2}) = 1/2 + 1/2 = 1\) になるわ。第 2 項の計算を確認すると、\((-i) \times i = -(i \times i) = -i^2 = -(-1) = 1\) だから、\((−i/\sqrt{2})(i/\sqrt{2}) = 1 \times (1/2) = 1/2\) ね。

⚪ メイ: きれいに 1 になるのが気持ちいいわね。複素共役を取る理由が実感できたわ。

要点 2:内積が確率振幅を与える

🟡 リナ: 2 つの状態 \(|\psi\rangle\)\(|\phi\rangle\) の内積 \(\langle\phi|\psi\rangle\) は、\(|\psi\rangle\) にある粒子が \(|\phi\rangle\) として見出される確率振幅。確率は \(|\langle\phi|\psi\rangle|^2\)

要点 3:基底の選び方は一通りではない

🟡 リナ: \(\{|+\rangle, |-\rangle\}\)\(z\) 方向の基底。\(\{|+\rangle_x, |-\rangle_x\}\)\(x\) 方向の基底。どちらも正規直交で完全——つまりどちらも「正しい基底」。物理は基底の選び方によらない。

要点 4:測定は基底の選択に対応

🟡 リナ: \(S_z\) を測定するとは、\(z\) 基底に射影すること。\(S_x\) を測定するとは、\(x\) 基底に射影すること。測定は状態を基底ベクトルの一つに「収束」させる。

⚪ メイ: つまり、まとめると——状態はベクトルで、内積が確率振幅を与えて、測定は基底への射影に対応する。この 4 つの要点は全部つながっているのね。

🟡 リナ: その通り。そしてこの構造全体——「内積が定義された複素ベクトル空間」——を、数学では Hilbert (ヒルベルト) 空間 と呼ぶの。今回のスピン 1/2 系は 2 次元の Hilbert 空間。第 7 章 以降で波動関数を扱うときには無限次元の Hilbert 空間が登場するけれど、構造は本質的に同じよ。

🔵 カイ: 2 次元が無限次元に……?

🟡 リナ: そう。でも安心して。今回 2 次元で学んだ「正規直交基底」「完全性関係」「内積 = 振幅」「射影 = 測定」というルールは、次元が増えてもそのまま使える。だからこそ、最もシンプルな 2 次元系で構造を叩き込んでおくことが大事なのよ。

✅ 理解度チェック: 量子力学の数学的構造における 4 つの要点(状態・内積・基底・測定)を簡潔に述べてください。

答え

(1) 状態はベクトル(複素ベクトル空間の要素)で表される。(2) 内積 \(\langle\phi|\psi\rangle\) が確率振幅を与える。(3) 基底の選び方は一通りではなく、測定方向ごとに異なる正規直交基底がある。(4) 測定は状態を選んだ基底に射影する操作に対応する。

行列表示のまとめ

🟡 リナ: 最後に、\(z\) 基底での列ベクトル表示をまとめておくわ:

\[|+\rangle \doteq \begin{pmatrix} 1 \\ 0 \end{pmatrix}, \quad |-\rangle \doteq \begin{pmatrix} 0 \\ 1 \end{pmatrix} \tag{5.23}\]
\[|+\rangle_x \doteq \frac{1}{\sqrt{2}}\begin{pmatrix} 1 \\ 1 \end{pmatrix}, \quad |-\rangle_x \doteq \frac{1}{\sqrt{2}}\begin{pmatrix} 1 \\ -1 \end{pmatrix} \tag{5.24}\]
\[|+\rangle_y \doteq \frac{1}{\sqrt{2}}\begin{pmatrix} 1 \\ i \end{pmatrix}, \quad |-\rangle_y \doteq \frac{1}{\sqrt{2}}\begin{pmatrix} 1 \\ -i \end{pmatrix} \tag{5.25}\]

🔵 カイ: \(y\) 方向だけ虚数 \(i\) が入ってるのが面白いですね。

🟡 リナ: そう。3 次元空間の 3 方向を表すのに、2 次元複素空間では「実数の係数」と「虚数の係数」の両方が必要になる。複素数が量子力学に不可欠である理由の一端がここに見えるわね。図 5.4「スピン 1/2 の各基底ベクトル」 に、\(z\) 基底を座標軸にしたとき各基底ベクトルがどう「向いている」かを描いたから見てみて。\(x\) 基底は実平面内で 45° 回転した方向を向くけれど、\(y\) 基底は虚数成分を持つから実平面だけでは完全には表現できない——図では便宜的に描いているけれど、本当の「向き」は複素平面まで含めて初めて理解できるの。

スピン1/2の各基底ベクトル

図 5.4: スピン 1/2 の各基底ベクトル。\(z\) 基底 \(\{|+\rangle, |-\rangle\}\) を座標軸としたとき、\(x\) 基底は 45° 回転した方向を向く。\(y\) 基底は虚数成分を持つため実平面だけでは完全には表現できない。

✅ 理解度チェック: スピン 1/2 系の状態空間が「2 次元 Hilbert 空間」であるとはどういう意味でしょうか?

答え

任意のスピン状態が 2 つの正規直交な基底ベクトル(例えば \(|+\rangle\)\(|-\rangle\))の複素数係数の線形結合で表せ、内積が定義されている複素ベクトル空間であるということ。

📝 練習問題:

  • 式 (5.24) の \(|+\rangle_x\)\(|-\rangle_x\) が正規直交であることを列ベクトルの内積(\(\langle a|b\rangle = a_1^* b_1 + a_2^* b_2\))で確認せよ → 問題 B-2. 内積の計算

まとめと展望

🟡 リナ: 今日の内容を振り返りましょう。表 5.2「@chapter」 に主要概念をまとめたわ。

表 5.2: 第 5 章の主要概念まとめ

概念 内容
Stern-Gerlach 実験 銀原子のビームが 2 つに分裂 → スピンの離散性
スピン 粒子の内在的角運動量。古典的「自転」ではない
状態ベクトル \(\vert\psi\rangle\) 量子状態を表す複素ベクトル空間の要素
基底 \(\vert+\rangle, \vert-\rangle\) 正規直交な基本状態の組。測定方向ごとに異なる
内積 \(\langle\phi\vert\psi\rangle\) 確率振幅。\(\vert\langle\phi\vert\psi\rangle\vert^2\) が確率
完全性関係 \(\vert+\rangle\langle+\vert + \vert-\rangle\langle-\vert = \mathbf{1}\)
測定 状態を基底に射影する操作。他の方向の情報を破壊する

🔵 カイ: 一番驚いたのは、\(z\) 方向を確認した後に \(x\) 方向を測定すると、\(z\) 方向の情報が消えるってところです。でも逆に、\(z\)\(x\) を同時に測定する方法はないんですか? たとえば装置を斜め 45° に傾けたら、\(z\)\(x\) の「中間」の情報が取れたりしないんですか?

🟡 リナ: いい発想ね。でも装置を 45° に傾けると、それは「45° 方向のスピン成分」を測定していることになる——\(z\)\(x\) を「同時に」測定しているわけではないの。結果はやはり \(\pm\hbar/2\) の 2 値で、その方向のスピンが確定する代わりに、\(z\) 方向や \(x\) 方向の情報は不確定になるわ。

⚪ メイ: つまり、どの方向に装置を向けても「その方向の成分」しか測れなくて、他の方向の情報は失われるのね。

🔵 カイ: でも、なぜ「同時に確定させる」ことができないんですか? 何か深い理由があるんじゃ……

🟡 リナ: その疑問は核心を突いているわ。「異なる方向のスピン成分は同時に確定できない」——この性質は、数学的には交換関係に由来するの。\(S_x\)\(S_z\) を表す行列は「掛ける順番を入れ替えると結果が変わる」——この非可換性が不確定性の根源よ。第 8 章で不確定性関係として定量的に定式化するわ。

🔵 カイ: 「掛ける順番で結果が変わる」……行列の掛け算は順番が大事って高校でも習いましたけど、それが物理的な不確定性に繋がるんですね。じゃあ逆に、「掛ける順番を入れ替えても結果が変わらない」ような物理量のペアがあったら、それらは同時に確定できるってことですか?

🟡 リナ: まさにそう。それが 第 8 章の核心テーマの一つよ。楽しみにしていて。


次章予告

🟡 リナ: 今回は「ある瞬間の状態」を記述する道具を手に入れた。でも物理学で本当に知りたいのは、状態が時間とともにどう変化するかよね。

🔵 カイ: 確かに。状態ベクトルの係数 \(c_+\)\(c_-\) が時間で変わっていくってことですか?

🟡 リナ: その通り。次の 第 6 章では、2 状態系の時間発展を扱うわ。具体的には、アンモニア分子 (NH₃) の窒素原子が「上」と「下」の 2 つの位置を量子力学的に行き来する——量子振動——を見ていく。そしてこの振動を利用した装置が メーザー (maser)——レーザーの先祖——よ。

⚪ メイ: 今回の「状態の記述」に「時間発展のルール」が加われば、予測ができるようになるのね。

🟡 リナ: そう。第 4 章の確率振幅のルール、第 5 章の状態ベクトルと基底、そして 第 6 章の時間発展——この 3 つが揃って、初めて量子力学が「予測するモデル」として機能し始めるの。


参考文献

  1. J. J. Sakurai, J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press, 2021 — Ch.1: Stern-Gerlach 実験から始めて状態ベクトル・演算子・測定を導入する構成。本章の主要な参照。
  2. R. P. Feynman, R. B. Leighton, M. Sands, The Feynman Lectures on Physics, Vol. III, Basic Books — Ch.5–6: "Spin One" / "Spin One-Half" — スピン 1 系での Stern-Gerlach 実験の詳細な議論と、スピン 1/2 の回転行列の導出。
  3. D. J. Griffiths, D. F. Schroeter, Introduction to Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press, 2018 — Ch.4.4: スピンの導入とパウリ行列。