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第 4 章 確率振幅のルール — Feynman の 3 つの法則

前回までのあらすじ:

第 3 章では、二重スリット実験を通じて古典物理学の決定論と素朴な実在論が崩壊する様子を見た。電子を一個ずつ飛ばしても干渉縞が現れ、「どちらのスリットを通ったか」を観測すると干渉縞が消える。古典的な確率の足し算では、この現象を説明できなかった。では、何が確率に代わって量子の世界を支配しているのか?——その答えが、この章のテーマだ。

この章のゴール

  • 量子力学の全体系を支える 3 つの基本ルールを学ぶ
  • 「事象の起こる確率は確率振幅という複素数の絶対値の 2 乗である」「区別できない経路の振幅は足す」「連続した過程の振幅は掛ける
  • この 3 つのルールで二重スリット実験を再記述し、干渉が自然に現れることを確認する

4.1 複素数のミニマル復習 — 振幅を扱うための道具

🟡 リナ: 前の章で、古典的な確率の足し算では二重スリットの干渉縞を説明できないことが分かったわね。今日はその代わりとなる「確率振幅」という道具を導入するのだけど、振幅は複素数なの。だから先に、複素数の最低限の道具だけ揃えておきましょう。

🔵 カイ: 複素数って、高校の数学 II で出てきた \(i^2 = -1\) のやつですよね? なんであれが物理に出てくるんですか?

🟡 リナ: いい疑問ね。結論から言うと、自然界のルールが複素数の論理で動いているらしい——ということが実験から分かっている。もう少し正確に言えば、量子力学のモデルは複素数を使わないと実験結果を再現できないの。理由は後で見るけれど、まずは道具の使い方を確認しましょう。

複素数の基本

🟡 リナ: 複素数 \(z\) は、実数 \(a\)\(b\) を使って

\[z = a + bi \tag{4.1}\]

と書ける。\(a\)実部\(\mathrm{Re}(z)\))、\(b\)虚部\(\mathrm{Im}(z)\))と呼ぶ。\(i\) は虚数単位で、\(i^2 = -1\) を満たす。

⚪ メイ: 高校で習ったのと同じね。\(a\)\(b\) はどちらもただの実数で、\(z\) はそれを組み合わせた「一つの数」。

🟡 リナ: そう。計算のルールも高校と同じ。足し算は実部どうし・虚部どうしを足す。掛け算は普通に展開して \(i^2 = -1\) を使う。

\[ \begin{aligned} (a + bi)(c + di) &= ac + adi + bci + bdi^2 \\ &= (ac - bd) + (ad + bc)i \end{aligned} \tag{4.2} \]

🔵 カイ: \(i^2 = -1\) だけ覚えておけば、あとは普通の計算ですね。

複素平面と絶対値

🟡 リナ: 複素数は複素平面(ガウス平面とも呼ばれる)上の点として描ける。横軸が実部、縦軸が虚部。

原点から点 \(z = a + bi\) までの距離を \(z\)絶対値と呼んで、\(|z|\) と書く。横に \(a\)、縦に \(b\) だけ進んだ点だから、原点からの距離は Pythagoras(ピタゴラス)の定理そのもので、

\[|z| = \sqrt{a^2 + b^2} \tag{4.3}\]

⚪ メイ: 実数のときの「絶対値 = 数直線上の原点からの距離」を、平面に拡張したものね。

🟡 リナ: その通り。そして絶対値の 2 乗は

\[|z|^2 = a^2 + b^2 \tag{4.4}\]

これは必ず 0 以上の実数になる。この性質が、量子力学で「確率」を取り出すときに決定的に重要なの。

複素共役

🟡 リナ: もう一つだけ道具を紹介するわ。\(z = a + bi\) の虚部の符号だけ反転させたものを複素共役と呼んで、\(z^*\) と書く。

\[z^* = a - bi \tag{4.5}\]

🔵 カイ: 虚部のプラスマイナスをひっくり返すだけ?

🟡 リナ: そう。複素平面で言えば、実軸に関して鏡映した点。これが便利なのは、\(z\)\(z^*\) を掛けると絶対値の 2 乗が出てくるから。

\[z \cdot z^* = (a + bi)(a - bi) = a^2 - (bi)^2 = a^2 + b^2 = |z|^2 \tag{4.6}\]

⚪ メイ: つまり \(|z|^2 = z \cdot z^*\)。これなら平方根を取らなくても絶対値の 2 乗が計算できるわね。

🟡 リナ: この関係はこの先ずっと使うから、しっかり覚えておいて。

極形式 — 大きさと角度で表す

🟡 リナ: 複素平面上の点は、原点からの距離 \(r = |z|\) と、実軸からの角度 \(\theta\)偏角と呼ぶ)でも指定できるわね。三角関数を使えば

\[z = r(\cos\theta + i\sin\theta) \tag{4.7}\]

🔵 カイ: 直交座標 \((a, b)\) と極座標 \((r, \theta)\) の関係ですね。\(a = r\cos\theta\)\(b = r\sin\theta\)

🟡 リナ: そう。この書き方を極形式と呼ぶ。極形式で書くと、掛け算の意味がとても見やすくなるの。2 つの複素数 \(z_1 = r_1(\cos\theta_1 + i\sin\theta_1)\)\(z_2 = r_2(\cos\theta_2 + i\sin\theta_2)\) を掛けると、三角関数の加法定理から

\[z_1 \cdot z_2 = r_1 r_2 \bigl[\cos(\theta_1 + \theta_2) + i\sin(\theta_1 + \theta_2)\bigr] \tag{4.8}\]

🟡 リナ: 結果を見て。絶対値は \(r_1 r_2\) で掛け算、偏角は \(\theta_1 + \theta_2\) で足し算になっている。つまり複素数の掛け算は「拡大・縮小」と「回転」を同時に行う操作なの。たとえば \(i\) を掛けるというのは、\(|i| = 1\)\(\arg(i) = \pi/2\) だから、「大きさはそのまま、90° 回転」を意味する。

⚪ メイ: なるほど、絶対値は掛け算、偏角は足し算。きれいに分離するのね。

🔵 カイ: なるほど……。\(i\) を 2 回掛けると 180° 回転で \(-1\) になる。だから \(i^2 = -1\) なのか!

🟡 リナ: いい理解ね。ここまでの内容を 図 4.1「複素平面における複素数 \(z = a + bi\) の表示」図 4.2「複素数の掛け算の幾何学的意味」 にまとめておいたから、確認してみて。複素数の詳しい話——Euler(オイラー)の公式 \(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\) の導出やテイラー展開との関係——は Appendix A で扱うわ。ただし、この章の後半で \(e^{i\theta}\) を便利な省略記法として使うから、そのときに改めて説明するわね。

複素平面における複素数の表示

図 4.1: 複素平面における複素数 \(z = a + bi\) の表示。絶対値 \(|z| = \sqrt{a^2+b^2}\) は原点からの距離、偏角 \(\theta\) は実軸からの角度。複素共役 \(z^* = a - bi\) は実軸に対する鏡映。

複素数の掛け算の幾何学的意味

図 4.2: 複素数の掛け算の幾何学的意味。\(z_1 z_2\) の絶対値は \(|z_1|\cdot|z_2|\)(拡大)、偏角は \(\theta_1 + \theta_2\)(回転)。\(i\) を掛けることは「\(90°\) 回転」に相当する。

✅ 理解度チェック: 複素数 \(z = 3 + 4i\) の絶対値 \(|z|\) と、\(z \cdot z^*\) の値をそれぞれ求めてください。

答え

\(|z| = \sqrt{3^2 + 4^2} = \sqrt{9 + 16} = \sqrt{25} = 5\)\(z \cdot z^* = (3 + 4i)(3 - 4i) = 9 + 16 = 25 = |z|^2\)

📝 練習問題:


4.2 確率振幅とは何か — 第 1 のルール

🟡 リナ: さて、道具が揃ったところで、いよいよ量子力学の核心に入るわ。前の章で、二重スリット実験の結果を古典的な確率(実数)の足し算では説明できないことを見たわね。量子力学は、確率の代わりに確率振幅(probability amplitude)という量を導入する。

🔵 カイ: 「振幅」って、波の振幅みたいなものですか?

🟡 リナ: 名前の由来はそこにあるけれど、もっと一般的な概念よ。定義を述べるわね。

第 1 のルール(確率の法則)

ある事象が起こる確率 \(P\) は、その事象に対応する確率振幅 \(\phi\)(一般に複素数)の絶対値の 2 乗で与えられる。

\[P = |\phi|^2 \tag{4.9}\]

🔵 カイ: えっ、それだけ? でも……なんで複素数なんですか? 確率は 0 から 1 の実数ですよね。わざわざ複素数を経由する意味は?

🟡 リナ: 核心をつく疑問ね。理由は 2 つある。第一に、\(|z|^2 = a^2 + b^2 \geq 0\) だから、複素数の絶対値の 2 乗は必ず 0 以上の実数になる。確率は 0 以上でなければならないから、この条件はちゃんと満たされる。

もちろん確率は 1 以下でもなければならないけれど、それは振幅を適切に規格化(normalize)することで保証される。「規格化」とは、すべての起こりうる結果の確率を合計したらちょうど 1 になるという条件のこと。たとえば、起こりうる結果が 3 つ(\(A\)\(B\)\(C\))あって、各振幅が \(\phi_A\)\(\phi_B\)\(\phi_C\) なら、\(|\phi_A|^2 + |\phi_B|^2 + |\phi_C|^2 = 1\) が成り立つように振幅が定まっている必要があるの。古典確率でも「すべての場合の確率の合計は 1」という条件があるわよね。それと同じ発想よ。具体的な方法は 第 5 章 以降で詳しく扱うわ。

なお、この章では干渉の効果を見ることが目的だから、規格化を気にせず振幅の値をそのまま使うことがあるわ。そのため計算結果が 1 を超えることもあるけれど、それは規格化前の値だから問題ないの。たとえば後で \(|\phi_1|^2 + |\phi_2|^2 = 2\) のような値が出てくるけれど、これは「確率そのもの」ではなく「確率に比例する量」だと思ってちょうだい。本当の確率を求めるには全体を合計で割って 1 に揃えればいい——たとえば合計が 2 なら各項を 2 で割る——のだけど、今は「干渉項があると値が増えるか減るか」という相対的な変化だけが重要だから、割り算は省略するわ。規格化の正式な方法は 第 5 章 で学ぶわ。

🔵 カイ: なるほど、規格化は後回しにして、今は干渉の増減に注目すればいいんですね。でも、なんでわざわざ複素数を?

🟡 リナ: 第二の理由——こちらが本質的なのだけど——複素数には位相(偏角 \(\theta\))がある。2 つの複素数を足すとき、位相の違いによって強め合ったり弱め合ったりする。これが干渉の正体なの。古典的な確率は常に正の実数だから、確率を足せば必ず増える一方で、弱め合うことは起きないでしょう?

⚪ メイ: なるほど。確率は常に正だから足せば必ず増える。でも振幅は複素数だから、足したとき打ち消し合える。それが干渉縞の「暗い部分」を作るわけね。

🟡 リナ: まさにそう。ここが量子力学の核心よ。確率を直接足すのではなく、振幅を足してから絶対値の 2 乗を取る。この順番の違いが、古典と量子の決定的な違いを生むの。

🔵 カイ: でも、振幅が複素数だってことは、実験で直接測れないってことですよね? 測定値はいつも実数なのに……。

🟡 リナ: 鋭い指摘ね。その通り。私たちが実験で直接観測できるのは \(|\phi|^2\)、つまり確率だけ。振幅そのものは直接測れない。でも、振幅を使ったモデルの予測が、実験結果と驚くほど正確に一致する。「振幅は直接見えないけれど、振幅を使わないと実験を説明できない」——これが量子力学のモデルとしての力なの。

🔵 カイ: 見えないけれど、ないと困る……。

🟡 リナ: そう。物理学のモデルは「真理」ではなく「定量的な予測と反証可能性」に価値がある、とプロローグで話したわね。確率振幅というモデルは、今のところ実験と矛盾していない最良の仮説よ。

記法の導入 — Dirac のブラケット

🟡 リナ: 確率振幅を書き表すための便利な記法を一つ導入しておくわ。Dirac(ディラック)が発明したブラケット記法で、量子力学では広く使われているの。

🟡 リナ: 「粒子が状態 \(s\) から出発して、状態 \(x\) に到達する振幅」を

\[\langle x | s \rangle \tag{4.10}\]

と書く。右側の \(| s \rangle\)ケット(ket)、左側の \(\langle x |\)ブラ(bra)と呼ぶ。この記法では、ケットが始状態、ブラが終状態を表すと読む。全体の \(\langle x | s \rangle\)ブラケット(bracket = bra + ket)と呼んで、これが「\(s\) から \(x\) への振幅」を意味する記号よ。ブラとケットにはもっと深い数学的意味があるのだけど、それは 第 11 章 で改めて扱うわ。今は「振幅を書くための省略記号」として使ってね。

🔵 カイ: なんで終状態が左なんですか? 時間の順番だと右から左に読むってこと?

🟡 リナ: そう、右から左に「\(s\) から出発して \(x\) に到達する」と読む。最初は少し慣れが必要だけれど、後の章で行列を使った計算が出てきたとき、この「右から左」の約束が自然につながるのよ。次の 第 5 章 からさっそく使うけれど、記法についてはそこで実際に計算しながら慣れていきましょう。

🟡 リナ: この記法を使えば、第 1 のルールは

\[P(s \to x) = |\langle x | s \rangle|^2\]

と書ける。

⚪ メイ: 振幅の記号がそのまま「どこからどこへ」を表しているから、確率の式も読みやすくなるわね。

✅ 理解度チェック: Dirac のブラケット記法 \(\langle x | s \rangle\) において、ケット \(|s\rangle\) とブラ \(\langle x|\) はそれぞれ何を表すか。また、この記号全体は物理的に何を意味するか。

答え

ケット \(|s\rangle\) は始状態を、ブラ \(\langle x|\) は終状態を表す。記号全体 \(\langle x | s \rangle\) は「粒子が状態 \(s\) から出発して状態 \(x\) に到達する確率振幅」を意味する。右から左に読む。

✅ 理解度チェック: 確率振幅が実数ではなく複素数であることが本質的に重要な理由を、一文で述べてください。

答え

複素数には位相(偏角)があるため、2 つの振幅を足したとき強め合いや打ち消し合い(干渉)が起こりうるが、正の実数だけでは打ち消し合いが起こらないから。


4.3 経路の足し算 — 第 2 のルール

🟡 リナ: 次に、第 2 のルールに進むわ。これは 第 3 章の二重スリット実験で見た「謎」に直接答えるルールよ。

第 2 のルール(振幅の加法則)

ある事象が複数の区別できない経路を通って実現できるとき、全体の振幅は各経路の振幅のである。

🔵 カイ: 「区別できない経路」って?

🟡 リナ: 「原理的に、粒子がどの経路を通ったかを知る方法がない」という意味よ。二重スリット実験で言えば、どちらのスリットを通ったか観測しなかった場合、スリット 1 を通る経路とスリット 2 を通る経路は「区別できない」。

二重スリットの場合、検出器位置 \(x\) での振幅は

\[\langle x | s \rangle = \langle x | s \rangle_{\text{スリット 1 経由}} + \langle x | s \rangle_{\text{スリット 2 経由}} \tag{4.11}\]

🟡 リナ: ここで前の章の議論を思い出して。古典的な確率だと \(P = P_1 + P_2\) と確率を直接足した。でも量子力学では、振幅を足してから確率を求める。つまり

\[P = |\phi_1 + \phi_2|^2 \neq |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\]

ここで \(\phi_1 = \langle x | s \rangle_{\text{スリット 1 経由}}\)\(\phi_2 = \langle x | s \rangle_{\text{スリット 2 経由}}\) と略記したわ。

⚪ メイ: 左辺が量子力学の予測で、右辺が古典的な予測。この 2 つが一般には等しくならないということね。

🔵 カイ: でも、その「差」って具体的にどんな形になるんですか? 複素数を足してから絶対値を取ると、単純な引き算にはならないですよね?

🟡 リナ: いい疑問ね。実際に展開してみましょう。\(\phi_1\)\(\phi_2\) が複素数のとき、

\[\begin{aligned} |\phi_1 + \phi_2|^2 &= (\phi_1 + \phi_2)(\phi_1 + \phi_2)^* \\ &= (\phi_1 + \phi_2)(\phi_1^* + \phi_2^*) \\ &= \phi_1\phi_1^* + \phi_1\phi_2^* + \phi_2\phi_1^* + \phi_2\phi_2^* \\ &= |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2 + \phi_1 \phi_2^* + \phi_1^* \phi_2 \end{aligned} \tag{4.12}\]

1 行目から 2 行目で \((\phi_1 + \phi_2)^* = \phi_1^* + \phi_2^*\) を使ったわ——複素共役は「各項の虚部をそれぞれ反転させる」操作だから、和の複素共役は複素共役の和になるの。3 行目は普通の分配法則で展開しただけ。そして式 (4.6) の \(z \cdot z^* = |z|^2\) を使って \(\phi_1\phi_1^* = |\phi_1|^2\)\(\phi_2\phi_2^* = |\phi_2|^2\) と書き換えたわ。

🔵 カイ: あ、さっき学んだ \(z \cdot z^* = |z|^2\) がもう使われてる!

🟡 リナ: 最後の 2 項 \(\phi_1 \phi_2^* + \phi_1^* \phi_2\)干渉項 (interference term) と呼ぶわ。ここに干渉の本体が詰まっている。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。\(\phi_1 \phi_2^*\) って複素数ですよね? 確率 \(P\) は実数じゃないとおかしいのに、複素数の項が入っていて大丈夫なんですか? もう一つの項 \(\phi_1^* \phi_2\) と何か関係があるんですか?

🟡 リナ: いい疑問ね、そしていい着眼点よ。まさにその通りで、\(\phi_1 \phi_2^*\)\(\phi_1^* \phi_2\) は互いに複素共役の関係にあるの。複素共役どうしを足すと虚部が打ち消し合って実数になる——たとえば \((a+bi) + (a-bi) = 2a\) でしょう? だから干渉項は必ず実数で、\(P\) が実数であるべきという条件もちゃんと満たされるのよ。

🔵 カイ: あ、本当だ。\(w\)\(w^*\) を足せば虚部が消えるから、どんな \(\phi_1\)\(\phi_2\) でも干渉項は実数になるんですね。

🟡 リナ: しかもこの構造は振幅が 3 つ以上あっても同じように成り立つの。\(|\phi_1 + \phi_2 + \cdots|^2\) を展開すれば、交差項はすべて \(\phi_j\phi_k^*\)\(\phi_j^*\phi_k\) のペアで現れるから、確率が実数になることは振幅の個数によらず自動的に保証されるわ。

⚪ メイ: つまり「複素共役のペアで現れるから実数になる」という構造が、振幅がいくつあっても自動的に働くのね。

🟡 リナ: そう。もう少し見やすくするために、各振幅を極形式で書いてみましょう。式 (4.7) で見たように \(\phi_1 = |\phi_1|(\cos\theta_1 + i\sin\theta_1)\)\(\phi_2 = |\phi_2|(\cos\theta_2 + i\sin\theta_2)\) よ。ここで便利な省略記法を一つだけ導入するわ。\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\) と書くの。これを Euler(オイラー)の公式と呼ぶ。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。\(e\) って \(2.718\ldots\) の、あの指数関数の底ですよね? その肩に虚数 \(i\theta\) を乗せるって、どういう意味なんですか?

🟡 リナ: いい質問ね。もっともな疑問ね。実数の範囲では \(e^x\) は「\(e\)\(x\) 回掛ける」だけど、指数が虚数になると直接そうは解釈できない。Euler の公式は、指数関数を無限に続く足し算(無限級数)で書き直すと自然に出てくるの。その導出は Appendix A で丁寧にやるわ。今の段階では次のように定義してね——\(e^{i\theta}\) とは \(\cos\theta + i\sin\theta\) のことである、と。つまり「絶対値 1・偏角 \(\theta\) の複素数」に \(e^{i\theta}\) という名前をつけるの。省略記法というより、新しい記号の定義だと思ってちょうだい。この定義の最大の利点は、掛け算が指数の足し算になること——\(e^{i\alpha} \cdot e^{i\beta} = e^{i(\alpha+\beta)}\)——よ。これは式 (4.8) で示した「2 つの複素数を掛けると偏角が足し算になる」という性質を、そのまま指数の記法で表現しているだけなの。だから新しい法則ではなく、すでに確認した事実の書き換えよ。

具体的に確認してみましょう。式 (4.8) では \(r_1(\cos\theta_1 + i\sin\theta_1) \cdot r_2(\cos\theta_2 + i\sin\theta_2) = r_1 r_2[\cos(\theta_1+\theta_2) + i\sin(\theta_1+\theta_2)]\) だったわね。これを \(e^{i\theta}\) で書き直すと \(r_1 e^{i\theta_1} \cdot r_2 e^{i\theta_2} = r_1 r_2 \, e^{i(\theta_1+\theta_2)}\)——まったく同じ内容が、ずっとコンパクトに書ける。

🔵 カイ: なるほど、式 (4.8) を別の書き方にしただけなんですね。掛け算が足し算になるから便利だ。とりあえず省略記法として使います。

🟡 リナ: そう。この記法を使うと \(\phi_1 = |\phi_1|e^{i\theta_1}\)\(\phi_2 = |\phi_2|e^{i\theta_2}\) と書ける。ここで複素共役を取るとどうなるか確認しておくわ。\(e^{i\theta} = \cos\theta + i\sin\theta\) の複素共役は、虚部の符号を反転させるだけだから \(\cos\theta - i\sin\theta\) よね。

🔵 カイ: それは分かります。でも \(\cos\theta - i\sin\theta\)\(e\) の形で書き直せるんですか?

🟡 リナ: いい質問。高校で学んだ三角関数の性質を思い出して——\(\cos(-\theta) = \cos\theta\)\(\sin(-\theta) = -\sin\theta\)。これは単位円の定義から直接分かるわ。単位円上で角度 \(\theta\) の点は \((\cos\theta,\, \sin\theta)\)、角度 \(-\theta\) の点は実軸(\(x\) 軸)について対称な位置にあるから、\(x\) 座標(\(\cos\))は同じで \(y\) 座標(\(\sin\))は符号が逆になる。だから \(\cos\theta - i\sin\theta = \cos(-\theta) + i\sin(-\theta)\) と変形できる。ここで省略記法の約束を思い出して——\(e^{i\alpha} = \cos\alpha + i\sin\alpha\) だったわね。\(\alpha = -\theta\) を代入すれば右辺はまさに \(e^{i(-\theta)} = e^{-i\theta}\)。つまり複素共役を取ると指数の符号が反転するの。

⚪ メイ: なるほど、\((e^{i\theta})^* = e^{-i\theta}\)。シンプルね。

🟡 リナ: だから \(\phi_2^* = |\phi_2|e^{-i\theta_2}\)。すると

\[\phi_1 \phi_2^* = |\phi_1|e^{i\theta_1} \cdot |\phi_2|e^{-i\theta_2} = |\phi_1||\phi_2| e^{i(\theta_1 - \theta_2)} = |\phi_1||\phi_2| e^{i\delta}\]

ここで \(\delta = \theta_1 - \theta_2\) は 2 つの振幅の位相差よ。同様に \(\phi_1^* \phi_2 = |\phi_1||\phi_2| e^{-i\delta}\)。Euler の公式を使って展開してみましょう。\(e^{i\delta} = \cos\delta + i\sin\delta\)\(e^{-i\delta} = \cos\delta - i\sin\delta\)。この 2 つを足すと、虚部が打ち消し合って \(e^{i\delta} + e^{-i\delta} = 2\cos\delta\) になるから、

\[\phi_1 \phi_2^* + \phi_1^* \phi_2 = 2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta \tag{4.13}\]

🔵 カイ: おお! \(\cos\delta\) だ! \(\delta\) の値によってプラスにもマイナスにもなるから、干渉項が正にも負にもなれるんですね!

🟡 リナ: そうよ。まとめると

\[P = |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2 + 2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta \tag{4.14}\]
  • \(\cos\delta = +1\)(位相差 \(\delta = 0\))のとき:\(P = (|\phi_1| + |\phi_2|)^2\)強め合い(明るい縞)
  • \(\cos\delta = -1\)(位相差 \(\delta = \pi\))のとき:\(P = (|\phi_1| - |\phi_2|)^2\)弱め合い(暗い縞)
  • \(|\phi_1| = |\phi_2|\) かつ \(\delta = \pi\) なら \(P = 0\)完全な打ち消し

⚪ メイ: 位相差ひとつで、確率がゼロにまでなりうるのね。古典的には絶対に起きないことだわ。

図 4.3「確率振幅の足し算(複素平面上)」 を見てちょうだい。複素平面上で振幅を矢印(ベクトル)として足すとき、同じ向き(同位相)なら長さが加わり、反対向き(逆位相)なら打ち消し合うのが一目でわかるわ。

確率振幅の足し算と干渉

図 4.3: 確率振幅の足し算(複素平面上)。左: 同位相(\(\delta = 0\))の場合、振幅が強め合い \(|\phi_1 + \phi_2|^2 > |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\)。右: 逆位相(\(\delta = \pi\))の場合、振幅が打ち消し合い \(|\phi_1 + \phi_2|^2 < |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\)。位相差が干渉の正体。

🔵 カイ: これが干渉縞の正体か……! 振幅が複素数だから位相差が生まれて、足したときに強めたり弱めたりする。確率を直接足していたら、こうはならない。

🟡 リナ: そう。そして式 (4.14) の第 3 項 \(2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta\) を見て——これがまさに 第 3 章で「古典的な予測 \(P_1 + P_2\) からのずれ」として観測された干渉項に対応しているの。第 1 と第 2 のルールだけで、あの実験事実が数式として再現できたわ。

⚪ メイ: つまり、前の章で実験的に見えていた「ずれ」の正体が、この \(\cos\delta\) の項だったのね。

一般化:多数の経路

🟡 リナ: 第 2 のルールは 2 つの経路に限らないわ。区別できない経路が \(N\) 本あれば、

\[\langle x | s \rangle = \sum_{k=1}^{N} \langle x | s \rangle_{\text{経路 } k} \tag{4.15}\]

たとえば壁に 5 つのスリットがあれば、5 つの振幅を全部足す。壁が何枚もあって、各壁にスリットが複数あいていれば、すべての可能な経路の振幅を足し合わせる。

🔵 カイ: 経路が無限にあったらどうするんですか?

🟡 リナ: 鋭い質問ね。実は Feynman(ファインマン)はまさにその方向に進んで、「あらゆる可能な経路の振幅を足す」という経路積分の定式化にたどり着いた。それは先の話だけど、第 2 のルールの自然な延長線上にあるということは覚えておいて。

✅ 理解度チェック: 干渉項 \(2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta\) において、\(\delta = \pi/2\) のとき干渉項の値はいくらか。これは物理的にどういう状況を意味するか。

答え

\(\cos(\pi/2) = 0\) なので干渉項は 0 になる。このとき確率は \(|\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\) となり、古典的な確率の足し算と同じ結果になる。強め合いも弱め合いも起こらない中間的な状況である。

✅ 理解度チェック: 2 つの振幅 \(\phi_1 = 1\)\(\phi_2 = e^{i\pi} = -1\) を足したとき、確率 \(P = |\phi_1 + \phi_2|^2\) はいくらか。また、古典的に確率を足した場合 \(P_{\text{cl}} = |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\) はいくらか。

答え

\(\phi_1 + \phi_2 = 1 + (-1) = 0\) なので \(P = |0|^2 = 0\)(完全な打ち消し)。 一方、\(P_{\text{cl}} = |1|^2 + |-1|^2 = 1 + 1 = 2\)。 量子力学では確率がゼロになりうるが、古典的な足し算では決してゼロにならない。 (注:\(P_{\text{cl}} = 2 > 1\) は規格化前の値だから問題ない。この例で重要なのは「量子力学では \(P = 0\) になりうる」という定性的な違いである。)

📝 練習問題:


4.4 過程の掛け算 — 第 3 のルール

🟡 リナ: 3 つ目のルールに進むわ。

第 3 のルール(振幅の乗法則)

粒子がある経路を通るとき、その経路全体の振幅は、経路を構成する各段階の振幅の積である。

🔵 カイ: 足し算じゃなくて掛け算? どういうときに掛けるんですか?

🟡 リナ: 「足す」のは並列の選択肢(どの経路を通るか)、「掛ける」のは直列の段階(一つの経路の中で順番に起こること)よ。なぜ掛け算かというと、古典確率でも「A が起きて、さらに B も起きる」確率は \(P(A) \times P(B)\) と掛け算するわよね(独立な事象の場合)。振幅でも同じ発想——「第 1 段階が起き、続いて第 2 段階が起きる」一つの経路の振幅は、各段階の振幅の積になるの。

たとえば「東京から大阪に行く」経路が「東京→名古屋」と「名古屋→大阪」の 2 段階で構成されているとき、経路全体の振幅は各段階の振幅の積になる。二重スリット実験で言えば、「スリット 1 を通る経路」の振幅は、

\[\langle x | s \rangle_{\text{スリット 1 経由}} = \langle x | 1 \rangle \cdot \langle 1 | s \rangle \tag{4.16}\]

右から読んで、「\(s\) からスリット 1 に到達する振幅 \(\langle 1 | s \rangle\)」と「スリット 1 から \(x\) に到達する振幅 \(\langle x | 1 \rangle\)」の積よ。

⚪ メイ: 古典確率の掛け算と同じ構造ね。でも……。

🔵 カイ: でも振幅は複素数ですよね? 複素数を掛けるって、実数の確率を掛けるのと何か違いが出るんですか?

🟡 リナ: いい質問ね。決定的な違いがある。確率の掛け算は「正の実数 × 正の実数 = 正の実数」だから位相は関係ない。振幅の掛け算は「複素数 × 複素数 = 複素数」で、位相が足し合わされる。式 (4.8) で見た通り、偏角は加算されるでしょう? この位相の蓄積が、後で振幅を足すときの干渉パターンを決めるの。

🔵 カイ: なるほど。掛け算で位相がたまっていって、足し算のときにその位相差で干渉が起きる。掛け算と足し算がセットで働くんですね。

✅ 理解度チェック: 古典確率の掛け算と量子力学の振幅の掛け算の決定的な違いは何か。

答え

古典確率の掛け算は正の実数どうしの積なので位相の概念がないが、量子力学の振幅の掛け算は複素数どうしの積なので位相(偏角)が加算される。この位相の蓄積が、後に振幅を足し合わせる際の干渉パターンを決定する。

3 つのルールのまとめ

🟡 リナ: ここで 3 つのルールをまとめておくわ。

表 4.1: 量子力学の3つの基本ルール

ルール 内容 数式
第 1 のルール 確率 = 振幅の絶対値の 2 乗 $P =
第 2 のルール 区別できない経路 → 振幅を足す \(\phi = \phi_1 + \phi_2 + \cdots\)
第 3 のルール 連続した過程 → 振幅を掛ける \(\phi = \phi_A \cdot \phi_B \cdot \cdots\)

🔵 カイ: たった 3 つ? これで量子力学の全部が?

🟡 リナ: 「全部」は言い過ぎだけど、驚くほど多くの現象がこの 3 つのルールから導かれる。図 4.4「3 つのルールの構造」 を見てちょうだい。第 2 のルール(足し算)は並列の選択肢に、第 3 のルール(掛け算)は直列の段階に対応しているの。

3つのルールの構造図

図 4.4: 3 つのルールの構造。左: 第 2 のルール——始状態 \(s\) から終状態 \(x\) に至る区別できない並列経路の振幅を足す(\(\phi = \phi_1 + \phi_2\))。右: 第 3 のルール——一つの経路を構成する連続した直列段階の振幅を掛ける(\(\phi = \phi_A \cdot \phi_B \cdot \phi_C\))。

🟡 リナ: Feynman はこの 3 つのルールを量子力学の出発点として提示したの。もちろん、具体的な問題を解くには「各段階の振幅がどんな値を取るか」を別途知る必要がある。でもルールの構造はこの 3 つで完結しているのよ。古典力学で言えば、Newton の運動方程式 \(\mathbf{F} = m\mathbf{a}\) が「構造」を与えて、具体的な力 \(\mathbf{F}\) の形は問題ごとに異なるでしょう? それと似た関係ね。

⚪ メイ: つまり、3 つのルールが「どう計算するか」の枠組みを決めて、具体的な振幅の値は系ごとに別途与えられる、ということね。

✅ 理解度チェック: 第 2 のルール(足し算)と第 3 のルール(掛け算)は、それぞれどのような状況で使うか。

答え

第 2 のルール(足し算):粒子が同じ始状態から同じ終状態に至る複数の区別できない経路がある場合、各経路の振幅を加える。 第 3 のルール(掛け算):一つの経路が複数の連続した段階から構成される場合、各段階の振幅を乗じる。

📝 練習問題:


4.5 二重スリットを振幅で再記述 — 3 つのルールの統合

🟡 リナ: さあ、3 つのルールを全部使って、第 3 章の二重スリット実験を振幅で定量的に記述してみましょう。これが今日のクライマックスよ。

セットアップの確認

🟡 リナ: 実験の配置を確認するわね(第 3 章の図を思い出して)。

  • 電子源 \(s\)
  • 壁にスリット 1 とスリット 2 がある
  • 壁の向こう側の位置 \(x\) に検出器

どちらのスリットを通ったかは観測しない。

🟡 リナ: 図 4.5「二重スリット実験における振幅の構造」 に実験配置と各振幅のラベルをまとめたわ。この図を見ながら、3 つのルールを順番に適用していくわよ。

二重スリットの振幅の構造

図 4.5: 二重スリット実験における振幅の構造。電子源 \(s\) からスリット 1, 2 を経由して検出器 \(x\) に至る 2 つの経路。第 3 のルールにより各経路の振幅は段階ごとの積(例: \(\phi_1 = \langle x|1\rangle\langle 1|s\rangle\))、第 2 のルールにより全振幅は \(\phi_1 + \phi_2\)、第 1 のルールにより確率は \(|\phi_1 + \phi_2|^2\)

ステップ 1:第 3 のルールで各経路の振幅を書く

🟡 リナ: まず、各経路の振幅を第 3 のルール(掛け算)で書くわ。

スリット 1 を経由する経路の振幅:

\[\phi_1 = \langle x | 1 \rangle \cdot \langle 1 | s \rangle \tag{4.17}\]

スリット 2 を経由する経路の振幅:

\[\phi_2 = \langle x | 2 \rangle \cdot \langle 2 | s \rangle \tag{4.18}\]

🔵 カイ: 右から読んで、「\(s\) からスリットへ」×「スリットから \(x\) へ」ですね。

ステップ 2:第 2 のルールで全振幅を求める

🟡 リナ: どちらのスリットを通ったか観測しないから、2 つの経路は区別できない。第 2 のルール(足し算)で

\[\langle x | s \rangle = \phi_1 + \phi_2 = \langle x | 1 \rangle \langle 1 | s \rangle + \langle x | 2 \rangle \langle 2 | s \rangle \tag{4.19}\]

ステップ 3:第 1 のルールで確率を求める

🟡 リナ: 最後に、第 1 のルール(確率 = |振幅|²)で

\[P(x) = |\phi_1 + \phi_2|^2 = |\phi_1|^2 + |\phi_2|^2 + \phi_1\phi_2^* + \phi_1^*\phi_2 \tag{4.20}\]

これは式 (4.12) と同じ形ね。最後の 2 項は式 (4.13) から \(2|\phi_1||\phi_2|\cos\delta\) に等しい(\(\delta\)\(\phi_1\)\(\phi_2\) の位相差で、具体的に何で決まるかはこの後すぐ見るわ)。ちなみに、任意の複素数 \(w\) について \(w + w^* = 2\,\mathrm{Re}(w)\)(実部の 2 倍)が成り立つから、干渉項を \(2\,\mathrm{Re}(\phi_1 \phi_2^*)\) と書くこともあるわ。

⚪ メイ: 3 つのルールを順番に適用しただけで、さっき導いた干渉項がそのまま出てきたわね。

位相差の物理的起源

🔵 カイ: でも、\(\delta\) って具体的にはどうやって決まるんですか?

🟡 リナ: いい質問。第 2 章 で学んだ de Broglie の関係式を思い出して。運動量 \(p\) の粒子には波長 \(\lambda = h/p\) が対応するのだったわね。

🔵 カイ: 波長は覚えてます。でも「位相が進む」って具体的にどういうことですか?

🟡 リナ: いい質問。まず「位相」を直感的に説明するわね。波を \(\cos\theta\) で表すとき、\(\theta\) の値が位相よ。\(\theta = 0\) が山、\(\theta = \pi\) が谷、\(\theta = 2\pi\) でまた山に戻る。つまり位相は「波のサイクルのどの段階にいるか」を表す角度なの。複素数で言えば、\(e^{i\theta}\) の偏角 \(\theta\) がまさにこの位相に対応するわ。

🔵 カイ: なるほど、位相が \(0 \to \pi \to 2\pi\) と変わるにつれて、山→谷→山と一周するんですね。

🟡 リナ: そう。もう少し具体的に書くと、高校で学んだ波の式を思い出して——波長 \(\lambda\) の波が伝わる方向に沿って、出発点からの距離を \(r\) とすると、波の値は \(\cos\bigl(\frac{2\pi}{\lambda}r\bigr)\) で表されるわよね。\(\frac{2\pi}{\lambda}r\) の部分が位相ね。\(r = 0\) で位相 \(0\)(山)、\(r = \lambda/2\) で位相 \(\pi\)(谷)、\(r = \lambda\) で位相 \(2\pi\)(また山)。つまり波長 \(\lambda\) は「波が一周期分(山→谷→山)繰り返す距離」で、距離 \(\lambda\) だけ進むと位相はちょうど \(2\pi\)(一周分)進む。

🔵 カイ: なるほど、波長 1 つ分で \(2\pi\) 進むんですね。じゃあ波長 3 つ分なら \(6\pi\)

🟡 リナ: その通り。これを一般化するわ。粒子が距離 \(r\) だけ移動するとき、その中には波が \(r/\lambda\) 周期分入っている。したがって位相は \(2\pi \times (r/\lambda) = 2\pi r/\lambda\) だけ進む。\(r = 3\lambda\) なら \(6\pi\)——山→谷→山を 3 回繰り返した分ね。ここでは \(\cos\) で位相の感覚を掴んだけれど、量子力学の振幅は複素数だから、実際には \(e^{i\theta}\) の偏角 \(\theta\) として位相を扱うの。つまり、粒子が距離 \(r\) を移動すると、振幅の偏角(=位相)が \(2\pi r/\lambda\) だけ回転する——さっき学んだ極形式で言えば、振幅に絶対値 1・偏角 \(2\pi r/\lambda\) の複素数が掛かるということよ。「粒子が距離 \(r\) を移動すると位相が \(2\pi r/\lambda\) 進む」という結論はどちらの書き方でも同じよ。

⚪ メイ: つまり、\(\cos\) で直感を掴んだ内容が、そのまま \(e^{i\theta}\) の偏角の話に読み替えられるのね。

🔵 カイ: 位相が進むっていうのは分かりましたけど、それが振幅にどう影響するんですか?

🟡 リナ: さっき学んだ極形式を思い出して。振幅は \(|\phi|e^{i\theta}\) と書けて、\(\theta\) が位相だったわね。粒子が距離 \(r\) を移動すると位相が \(2\pi r/\lambda\) だけ増えるのだから、振幅の偏角もその分だけ回転する。式で書くと、出発点での振幅 \(|\phi|e^{i\theta_0}\) に位相因子 \(e^{i \cdot 2\pi r/\lambda}\) が掛かって

\[|\phi|e^{i\theta_0} \times e^{i \cdot 2\pi r/\lambda} = |\phi|e^{i(\theta_0 + 2\pi r/\lambda)}\]

となる。式 (4.8) の「掛け算すると偏角が足し算になる」性質そのものね。絶対値(大きさ)は変わらず、位相(向き)だけが変わるの。

🔵 カイ: おお、大きさは変わらずに矢印の向きだけ回る。まさに「回転」ですね。

🟡 リナ: これを de Broglie の関係 \(\lambda = h/p\) で書き直してみましょう。

\[\frac{2\pi r}{\lambda} = \frac{2\pi r}{h/p} = \frac{2\pi p}{h} \cdot r\]

🟡 リナ: この式を整理してみましょう。\(\frac{2\pi p}{h} \cdot r\) という形を見ると、\(\frac{2\pi}{h}\) という組み合わせが共通因子として \(p\)\(r\) に掛かっているわね。実は位相を角度(ラジアン)で表す場面では \(2\pi\)\(h\) がいつもセットで出てくるの。第 1 章 で Bohr の量子条件を書いたとき \(\hbar = h/(2\pi)\) という記号を導入したのを覚えている? あのときは角運動量の量子化に使ったけれど、ここでも同じ記号が自然に現れるのよ。改めて確認すると

\[\hbar \equiv \frac{h}{2\pi} \approx 1.055 \times 10^{-34}\,\mathrm{J{\cdot}s}\]

で「エイチバー」と読む。

🔵 カイ: なるほど、角運動量の量子化に出てきた \(\hbar\) が位相の計算にも出てくるんですね。でもこれで式がどう変わるんですか?

🟡 リナ: この定義を変形してみましょう。\(\hbar = h/(2\pi)\) の両辺に \(2\pi\) を掛けると \(2\pi\hbar = h\)、つまり \(h = 2\pi\hbar\) ね。だから \(2\pi p/h\)\(h\)\(2\pi\hbar\) に置き換えると

\[\frac{2\pi p}{h} = \frac{2\pi p}{2\pi\hbar} = \frac{p}{\hbar}\]

\(2\pi\) が約分されてすっきりするでしょう? これを使うと、さっきの位相の式が

\[\frac{2\pi p}{h} \cdot r = \frac{p}{\hbar} \cdot r = \frac{pr}{\hbar}\]

とすっきり書ける。つまり位相は「運動量 × 距離」を \(\hbar\) で割った形——\(pr/\hbar\)——になるの。

⚪ メイ: 位相が \(pr/\hbar\) ——運動量と距離の積を \(\hbar\) で割っただけ。シンプルな形に収まるわね。

🟡 リナ: だから、自由粒子が距離 \(r\) だけ移動するとき、位相は \(pr/\hbar\) だけ進む。さっき学んだ Euler の記法を使えば、「位相が \(\theta\) だけ進む」ことは「振幅に \(e^{i\theta}\) を掛ける」ことに対応するのだったわね。したがって、振幅には

\[e^{ipr/\hbar} \tag{4.21}\]

という位相因子がつく。\(\hbar\) は「\(h\)\(2\pi\) で割っただけ」だけど、位相を角度(ラジアン)で表すときに \(2\pi\) が吸収されて式がすっきりするから、量子力学では \(h\) より \(\hbar\) を使うことが多いのよ。

🔵 カイ: さっき導入した \(e^{i\theta}\) の記法がここで使われるんですね。つまり距離 \(r\) を移動すると、振幅の大きさは変わらずに位相だけが \(pr/\hbar\) だけ回転する、ということですか?

🟡 リナ: その通り。\(e^{ipr/\hbar}\) は絶対値 1 で偏角が \(pr/\hbar\) の複素数だから、振幅に掛けても大きさは変えず、位相だけを回す。「距離 \(r\) を移動すると位相が \(pr/\hbar\) だけ回る」——これが自由粒子の振幅の基本的な振る舞いよ。図 4.6「自由粒子の位相蓄積」 を見て。

位相蓄積と経路差

図 4.6: 自由粒子の位相蓄積。左: 粒子が距離 \(r\) を移動するとき、振幅の位相が \(pr/\hbar\) だけ回転する(矢印の向きが位相を表す)。1 波長 \(\lambda = h/p\) 進むと位相は \(2\pi\) 回転。右: 二重スリットで 2 つの経路の長さが異なると位相差 \(\delta = p\Delta r/\hbar\) が生じ、これが干渉パターンを決める。

🟡 リナ: スリット 1 から検出器 \(x\) までの距離を \(r_1\)、スリット 2 から \(x\) までの距離を \(r_2\) とするわ。ここで話を簡単にするために、電子源が 2 つのスリットの中央正面にある対称な配置を考えましょう。第 3 のルールで各経路の振幅を掛けたとき、式 (4.8) で見たように位相は足し算になるから、経路 \(k\) の全位相は「源→スリット \(k\) の位相」+「スリット \(k\)\(x\) の位相」よ。式で書くと、源からスリット \(k\) までの距離を \(d_k\)、スリット \(k\) から検出器までの距離を \(r_k\) とすれば、経路 \(k\) の全位相は \(pd_k/\hbar + pr_k/\hbar\) になる。2 つの経路の位相差は

\[\delta = \frac{p(d_1 + r_1)}{\hbar} - \frac{p(d_2 + r_2)}{\hbar} = \frac{p(d_1 - d_2)}{\hbar} + \frac{p(r_1 - r_2)}{\hbar}\]

対称配置では \(d_1 = d_2\) だから第 1 項が消えて、位相差はスリットから検出器までの部分だけで決まるの。

🔵 カイ: もし電子源が中央からずれていたら、結論は変わるんですか?

🟡 リナ: 結論は変わらないわ。非対称な配置だと「源→スリット 1」と「源→スリット 2」の距離が違うから、その分の位相差が余分に加わる。でもそれは検出器の位置 \(x\) によらない定数だから、干渉縞のパターン全体が横にずれるだけで、縞の間隔や「干渉が起こる」という事実は同じなの。今は干渉の仕組みを見たいから、余分な定数を省ける対称配置で議論するわね。

経路差を \(\Delta r = r_1 - r_2\) と書くわ。さっき学んだように、自由粒子が距離 \(r\) を移動すると位相が \(pr/\hbar\) だけ進むのだったわね。だからスリット \(k\) から検出器 \(x\) までの位相は \(\theta_k = pr_k/\hbar\)。位相差 \(\delta = \theta_1 - \theta_2\)

\[\delta = \frac{p}{\hbar}(r_1 - r_2) = \frac{p}{\hbar}\Delta r \tag{4.22}\]

⚪ メイ: 経路差 \(\Delta r = r_1 - r_2\) に比例して位相差が生まれるのね。

🟡 リナ: そう。そして検出器の位置 \(x\) を動かすと \(\Delta r\) が変わるから、\(\cos\delta\) が振動して明暗のパターンができる——これが干渉縞よ。

🔵 カイ: 検出器の位置を横にずらすだけで \(\cos\) が振動する……それが明暗のパターンになるんですね!

🟡 リナ: この式をもう少し変形してみましょう。まず \(\hbar = h/(2\pi)\) の定義から \(p/\hbar = 2\pi p/h\) と書き直す。次に 第 2 章 で学んだ de Broglie の関係式 \(\lambda = h/p\) を思い出して。これを \(p\) について解くと \(p = h/\lambda\) よ。これを代入すると

\[\delta = \frac{p}{\hbar}\Delta r = \frac{2\pi p}{h}\Delta r = \frac{2\pi}{h} \cdot \frac{h}{\lambda} \cdot \Delta r = \frac{2\pi}{\lambda}\Delta r \tag{4.23}\]

真ん中のステップでは \(p\)\(h/\lambda\) に置き換えたの。\(h\) が約分されて、最終的に波長 \(\lambda\) と経路差 \(\Delta r\) だけで位相差が表せたわ。

こうして位相差が波長 \(\lambda\) と経路差 \(\Delta r\) だけで表せたわ。

\(\Delta r\) が波長 \(\lambda\) の整数倍(\(\Delta r = \lambda, 2\lambda, 3\lambda, \ldots\))のとき \(\cos\delta = 1\) で強め合い、半整数倍(\(\Delta r = \lambda/2, 3\lambda/2, 5\lambda/2, \ldots\))のとき \(\cos\delta = -1\) で弱め合う。これは 第 3 章で実験的に見た干渉縞のパターンと完全に一致するわ。

🔵 カイ: すごい……。3 つのルールと de Broglie の関係式だけで、二重スリットの干渉縞が定量的に出てくるんですね。

🟡 リナ: そうよ。そしてこの導出のどこにも「電子は波である」とは言っていない。言ったのは「確率振幅は複素数で、区別できない経路の振幅を足す」というルールだけ。干渉は複素数の足し算の帰結として自然に現れるの。

✅ 理解度チェック: 二重スリット実験の干渉を説明するのに「電子は波である」という仮定は必要か。3 つのルールの枠組みでは、干渉はどのように説明されるか。

答え

「電子は波である」という仮定は必要ない。3 つのルールの枠組みでは、干渉は「確率振幅が複素数であり、区別できない経路の振幅を足し合わせる」という規則の数学的帰結として自然に現れる。位相差による強め合い・弱め合いが干渉縞を生む。

✅ 理解度チェック: 二重スリット実験で、2 つの経路差 \(\Delta r\) がちょうど de Broglie 波長 \(\lambda\) に等しいとき、位相差 \(\delta\) と干渉の種類(強め合い/弱め合い)を答えてください。

答え

\(\delta = 2\pi\Delta r / \lambda = 2\pi\)\(\cos(2\pi) = 1\) なので強め合い(明るい縞)。

📝 練習問題:


4.6 より複雑な場合への拡張

🟡 リナ: 3 つのルールの威力を実感するために、もう少し複雑な場合を考えてみましょう。壁が 2 枚あって、1 枚目にはスリット 1 とスリット 2、2 枚目にはスリット \(a\)\(b\)\(c\) の 3 つがあいている場合よ。

🔵 カイ: 経路が一気に増えますね。\(s \to 1 \to a \to x\)\(s \to 1 \to b \to x\)、……全部で何通り?

⚪ メイ: 1 枚目が 2 通り、2 枚目が 3 通りだから、\(2 \times 3 = 6\) 通りね。

🟡 リナ: 図 4.7「2 枚壁・複数スリットの場合」 に全経路を図示したわ。色の異なる 6 本の線が全ての可能な経路を表している。

2枚壁の場合の全経路

図 4.7: 2 枚壁・複数スリットの場合。壁 1 に 2 つ、壁 2 に 3 つのスリットがあるとき、\(s\) から \(x\) に至る経路は \(2 \times 3 = 6\) 本。各経路の振幅は 3 段階の積(第 3 のルール)、全経路の振幅を足す(第 2 のルール)。

🟡 リナ: 各経路の振幅を第 3 のルール(掛け算)で書いて、全経路を第 2 のルール(足し算)で加える。

\[\langle x | s \rangle = \sum_{i=1,2}\,\sum_{j=a,b,c} \langle x | j \rangle \langle j | i \rangle \langle i | s \rangle \tag{4.24}\]

🔵 カイ: 3 つの振幅の積が 6 個あって、それを全部足す。構造はさっきと同じですね。

🟡 リナ: そう。壁が何枚あっても、スリットが何個あっても、ルールは同じ。「各段階を掛けて、全経路を足す」。そして最後に絶対値の 2 乗を取って確率を得る。

⚪ メイ: 壁の枚数やスリットの数が増えても、3 つのルールの適用の仕方は変わらないのね。

🟡 リナ: ここで一つ、大事なことを補足しておくわ。式 (4.24) をよく見ると、1 枚目のスリットの情報は \(\langle j | i \rangle\)\(\langle i | s \rangle\) にしか入っていない。2 枚目のスリットから先の振幅 \(\langle x | j \rangle\) は、粒子が 1 枚目のどのスリットを通ったかに依存しない。

🔵 カイ: つまり、1 枚目を通過した後の「状態」が決まれば、それ以前の詳細は忘れてよいってこと?

🟡 リナ: まさにそう。Feynman はこう言っている——「未来のすべてを予測するのに必要なのは、各スリットでの振幅だけである」。粒子がスリットに到達する前にどこから来たかの詳細は、振幅の中にすべて畳み込まれている。これは量子力学の「状態」という概念の萌芽で、第 5 章 以降で本格的に扱うわ。

✅ 理解度チェック: 式 (4.24) の構造において、2 枚目のスリットから検出器への振幅 \(\langle x | j \rangle\) は、粒子が 1 枚目のどのスリットを通ったかに依存するか。これはどのような物理的意味を持つか。

答え

依存しない。2 枚目のスリット \(j\) から検出器 \(x\) への振幅は、粒子が 1 枚目のどのスリットを通って \(j\) に到達したかには関係しない。これは「ある地点での振幅さえ分かれば、それ以前の経路の詳細を知らなくても未来を予測できる」ことを意味し、量子力学における「状態」の概念の萌芽である。

✅ 理解度チェック: 壁が 3 枚あり、各壁にスリットが \(n_1\)\(n_2\)\(n_3\) 個あいている場合、全経路の数はいくつか。また、各経路の振幅はいくつの因子の積になるか。

答え

全経路の数は \(n_1 \times n_2 \times n_3\)。各経路の振幅は 4 つの因子の積(源 → 壁 1、壁 1 → 壁 2、壁 2 → 壁 3、壁 3 → 検出器)。

📝 練習問題:


4.7 「区別できる」と「区別できない」の境界

🟡 リナ: さて、ここまでで 3 つのルールとその使い方を見てきた。最後に、量子力学で最も微妙で最も重要なポイントを議論するわ。それは「区別できる」と「区別できない」の境界

🔵 カイ: 第 3 章で、「どちらのスリットを通ったか観測すると干渉縞が消える」という話がありましたよね。あれと関係ありますか?

🟡 リナ: まさにそれよ。3 つのルールには、実は暗黙の前提がある。

振幅を足すのは、終状態が区別できない場合だけ。

終状態が原理的に区別できる場合は、確率を足す。

観測による干渉の消失

🟡 リナ: 具体的に見ましょう。二重スリットの各スリットのすぐ後ろに光源を置いて、電子がどちらを通ったか検出する実験を考えるわ。仕組みはこう——壁のすぐ裏側で、2 つのスリットのちょうど中間の位置に光源を 1 つ置く。そしてスリット 1 のすぐ脇に光子検出器 \(D_1\)、スリット 2 のすぐ脇に光子検出器 \(D_2\) を配置する。つまり、左から順に「\(D_1\) — スリット 1 — 光源 — スリット 2 — \(D_2\)」と並んでいるイメージよ。光源から出た光子が電子にぶつかると散乱されるのだけど、電子がスリット 1 の近くにいれば光子はスリット 1 の方向に跳ね返されて \(D_1\) に入り、スリット 2 の近くにいれば \(D_2\) に入る——つまり、どちらの検出器が光ったかで電子の位置が分かるの。これは 第 3 章 で議論した「経路情報の取得」を具体的な装置で実現したものよ。

🔵 カイ: なるほど、光子を当てて「どっちにいるか」を調べるわけですね。でもそうすると干渉が消えちゃう……。

🟡 リナ: このとき、「電子が \(x\) に到達し、かつ光子が \(D_1\) で検出される」振幅と、「電子が \(x\) に到達し、かつ光子が \(D_2\) で検出される」振幅は、異なる終状態に対応する。

⚪ メイ: 「電子が \(x\) にいる」だけでなく、「光子がどこにいるか」も終状態の一部ということね。

🟡 リナ: そう。光子が \(D_1\) にいる終状態と \(D_2\) にいる終状態は原理的に区別できる。だから振幅を足してはいけない。確率を足すの。

🟡 リナ: 光子が \(D_1\) で検出される場合を考えるわ。ここで第 3 のルールの適用範囲を少し広げる必要があるの。

第 3 のルールは「一つの経路を構成する各段階の振幅を掛ける」と述べたわね。さっきは一つの粒子が「\(s\) → スリット → \(x\)」と移動する各段階を掛けたけれど、実はこのルールはもっと広い。一つのシナリオを構成するすべての出来事——たとえ複数の粒子が関わっていても——の振幅を掛けるの。

🔵 カイ: 複数の粒子が関わる場合も掛け算? なぜそうなるんですか?

🟡 リナ: 考え方はこう——古典確率でも「サイコロで 1 が出て、かつコインで表が出る」確率は各確率の積 \(1/6 \times 1/2\) だったわよね。独立な出来事が「同時に起こる」確率は掛け算。量子力学でも第 3 のルールはまさにこの構造の振幅版なの。「電子がスリット 1 を通って \(x\) に到達する」ことと「光子がスリット 1 の近くで散乱されて \(D_1\) に行く」ことが同時に起こる——これは一つのシナリオを構成する複数の段階だから、第 3 のルール(連続した過程の振幅は掛ける)をそのまま適用して、各部分の振幅の積になるの。ただし複素数だから位相も掛かる——そこだけが古典との違いよ。

🔵 カイ: つまり、「電子がこう動く」と「光子がこう動く」が一つのセットになっていて、セット全体の振幅は各部分の積ってことですか? 確率の掛け算と同じ構造だけど、複素数だから位相も掛かる。

🟡 リナ: その通り。光源から出た光子も量子だから、その振る舞いも振幅で記述されるの。電子がスリット 1 を通ったとき、光源から出た光子がスリット 1 の近くで散乱されて検出器 \(D_1\) に到達する振幅を \(a\) とする。電子がスリット 1 を通って \(x\) に到達する振幅は \(\phi_1\)。このシナリオ全体の振幅は第 3 のルールにより \(a \cdot \phi_1 = a\phi_1\) になる。

⚪ メイ: なるほど、さっきリナ先生が言った「古典確率の掛け算と同じ構造で、ただし複素数だから位相も掛かる」というのが、ここでも同じように使われているのね。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。光子が電子に当たったら、電子の運動も変わりませんか? \(\phi_1\) がそのまま使えるんですか?

🟡 リナ: いい指摘ね。厳密には光子との相互作用で電子の運動量が少し変わる。でも今は議論の本質——「区別できると干渉が消える」——を見たいから、光子の影響が小さい(電子の振幅 \(\phi_1\) がほとんど変わらない)場合を考えているの。光子のエネルギーが電子の運動エネルギーに比べて十分小さければ、この近似は良い。ちなみに 第 2 章 で学んだように光子のエネルギーは \(E = hf\) だから、波長が長い光ほどエネルギーが小さく、電子への影響も小さいの。この点は後の議論にもつながるわ。

🟡 リナ: 同様に、電子がスリット 2 を通ったのに光子が \(D_1\) に散乱される振幅を \(b\) とするわ。記号が増えてきたから、ここで整理しておきましょう。

電子の経路 光子が \(D_1\) に行く振幅 光子が \(D_2\) に行く振幅
スリット 1 \(a\)(近い方) \(b'\)(遠い方)
スリット 2 \(b\)(遠い方) \(a'\)(近い方)

\(a\)\(a'\) は「電子が通ったスリットに近い方の検出器に光子が行く」振幅、\(b\)\(b'\) は「遠い方の検出器に行く」振幅よ。配置が対称なら \(a = a'\)\(b = b'\) になる。

🔵 カイ: なるほど、\(a\) が「正しい検出器に行く」振幅で、\(b\) が「間違った検出器に行く」振幅ですね。

🟡 リナ: そう。この記号を使って、終状態ごとに振幅を組み立てましょう。

🟡 リナ: まず終状態「電子が \(x\) にいて、光子が \(D_1\) にいる」を考えるわ。この終状態に至る経路は 2 つある。一つはスリット 1 経由で、電子がスリット 1 を通って \(x\) に到達する振幅 \(\phi_1\) と、光子がスリット 1 の近くで散乱されて \(D_1\) に到達する振幅 \(a\) を、第 3 のルールで掛けて \(a\phi_1\)。もう一つはスリット 2 経由で、同様に \(\phi_2\)\(b\) を掛けて \(b\phi_2\)。どちらの経路も同じ終状態(電子は \(x\)、光子は \(D_1\))に至るから、第 2 のルールで振幅を足して

\[\Phi_1 = a\phi_1 + b\phi_2 \tag{4.25}\]

🔵 カイ: ここでも「同じ終状態に至る経路は振幅を足す」がそのまま使えるんですね。

🟡 リナ: 次に終状態「電子が \(x\) にいて、光子が \(D_2\) にいる」を考えるわ。同じ論理で、スリット 1 経由なら光子が \(D_2\) に行く振幅は \(b'\)(遠い方)、スリット 2 経由なら \(a'\)(近い方)だから

\[\Phi_2 = b'\phi_1 + a'\phi_2 \tag{4.26}\]

🟡 リナ: その通り。対称な配置なら \(a = a'\)\(b = b'\) よ。そして光の波長がスリット間隔より十分短ければ、光子は電子がどちらのスリットにいるかを「見分けられる」から、近い方の検出器にほぼ確実に行く——つまり \(b \approx 0\)\(b' \approx 0\) になる。

⚪ メイ: 波長が短いほど「見分ける力」が強いから、\(b\) がゼロに近づくのね。

🟡 リナ: さて、電子が \(x\) に到達する確率を求めましょう。「光子が \(D_1\) にいる」終状態と「光子が \(D_2\) にいる」終状態は原理的に区別できるわよね——検出器を見れば分かるから。区別できる終状態どうしは振幅ではなく確率を足す。だから

\[P(x) = |\Phi_1|^2 + |\Phi_2|^2 = |a\phi_1 + b\phi_2|^2 + |b'\phi_1 + a'\phi_2|^2 \tag{4.27}\]

🔵 カイ: あれ、これは式 (4.20) の \(|\phi_1 + \phi_2|^2\) とは全然違う形ですね。

🟡 リナ: そう。もし光の波長が十分短くて、どちらのスリットを通ったかが完全に判別できる場合(\(b = 0\)\(b' = 0\) に近い場合)、式 (4.27) の各項は \(|a\phi_1 + 0|^2 = |a\phi_1|^2\)\(|0 + a'\phi_2|^2 = |a'\phi_2|^2\) になる。ここで、2 つの複素数の積の絶対値について確認しておくわ。式 (4.8) で \(z_1 z_2\) の絶対値は \(r_1 r_2 = |z_1|\cdot|z_2|\) だったわよね。つまり \(|z_1 z_2| = |z_1|\cdot|z_2|\)——積の絶対値は絶対値の積になる。だから \(|a\phi_1| = |a|\cdot|\phi_1|\) で、その 2 乗は \(|a\phi_1|^2 = |a|^2|\phi_1|^2\) となる。したがって

\[P(x) \approx |a|^2|\phi_1|^2 + |a'|^2|\phi_2|^2 \tag{4.28}\]

各項が \(\phi_1\) だけ、あるいは \(\phi_2\) だけを含んでいて、\(\phi_1\)\(\phi_2\) が混ざった項(つまり \(\phi_1\phi_2^*\) のような干渉項)が存在しない。だから干渉項が消える。ここで \(|a|^2\)\(|a'|^2\) は光子の散乱確率で、一般には 1 ではないけれど、検出器の位置 \(x\) には依存しない定数よ。対称配置なら \(a = a'\) だから \(P(x) \approx |a|^2(|\phi_1|^2 + |\phi_2|^2)\) となる。全体にかかる \(|a|^2\)\(x\) によらない定数だから、\(x\) を変えたときの確率の形は \(|\phi_1|^2 + |\phi_2|^2\) に比例する——つまり干渉縞のない、2 つの山が重なっただけのパターンになるの。

🔵 カイ: おお、きれいに干渉項が消えた! \(\phi_1\)\(\phi_2\) が混ざらないから、\(\cos\delta\) の項がどこにもない。

⚪ メイ: 「区別できる」ことの数学的な帰結が、こんなにはっきり見えるのね。

🔵 カイ: じゃあ逆に、光源の波長がすごく長かったらどうなるんですか?

🟡 リナ: いい質問。光の波長がスリット間隔より十分長いと、光子はどちらのスリットの近くで散乱されたか「見分けがつかない」の。直感的に言うとこういうこと——波を使って 2 つの点を区別しようとするとき、区別できる精度は波長程度が限界なの。たとえば、池に石を投げたときの波紋で水面の小さな凹凸を検出しようとしても、波長が凹凸の間隔より大きければ、一つの山が両方の凹凸を同時に覆ってしまって違いに「気づけない」でしょう? 光も同じで、スリット間隔が波長 \(\lambda\) より十分小さいと、光子にとっては 2 つのスリットが「ほとんど同じ場所」に見えてしまう。式で言えば、\(a\)(電子がスリット 1 にいるとき光子が \(D_1\) に行く振幅)と \(b\)(電子がスリット 2 にいるとき光子が \(D_1\) に行く振幅)の値がほぼ等しくなるの。

🔵 カイ: なるほど、波紋の波長が凹凸より大きいと、凹凸の存在に「気づけない」ってことですね。波長 1 m の光で 1 mm 間隔のスリットを区別しようとしても無理だ。

🟡 リナ: そう。「ぼやけた目」で細かい文字を読むようなもので、どちらのスリットの近くで散乱されたか判別できない。これを式で言うと、光子の波長が長すぎて 2 つのスリットを「見分けられない」ということは、電子がスリット 1 にいてもスリット 2 にいても、光子が \(D_1\) に行く確率がほぼ同じになるということ——つまり \(a \approx b\)\(a' \approx b'\) になる。すると式 (4.25) は \(\Phi_1 = a\phi_1 + b\phi_2 \approx a(\phi_1 + \phi_2)\) となって、\(|\Phi_1|^2 \approx |a|^2|\phi_1 + \phi_2|^2\)——干渉項が復活するの。式 (4.27) が式 (4.20) に近づくのよ。光子による「どちらを通ったか」の情報が曖昧になると、干渉が復活する。

⚪ メイ: なるほど、\(a \approx b\) だと因数分解できて \(|\phi_1 + \phi_2|^2\) の形に戻るから、さっきの干渉ありの場合と同じ構造になるのね。

🟡 リナ: その通り。これが 第 3 章で見た「観測すると干渉が消える」現象の数学的な説明よ。

🟡 リナ: 古典確率と量子力学の計算規則を並べて比較すると、構造の類似性と決定的な違いが見えてくるわ。

表 4.2: 古典確率と量子力学の振幅規則の比較

操作 古典確率 量子力学(振幅)
足す対象 確率(正の実数) 振幅(複素数)
掛ける対象 確率(正の実数) 振幅(複素数)
並列選択肢 \(P = P_1 + P_2\) \(\phi = \phi_1 + \phi_2\)
直列段階 \(P = P_A \times P_B\) \(\phi = \phi_A \cdot \phi_B\)
観測量 確率そのもの \(P = \lvert\phi\rvert^2\)
干渉 なし(常に正) あり(位相で打ち消し可能)

ルールの核心

🟡 リナ: ここで本質を整理しておくわ。

量子力学のルール:

  • 終状態が原理的に区別できない過程 → 振幅を足す(干渉が起こる)
  • 終状態が原理的に区別できる過程 → 確率を足す(干渉は起こらない)

🔵 カイ: 「原理的に」というのが重要ですよね。実際に観測したかどうかではなく、原理的に区別可能かどうか。

🟡 リナ: 非常に重要な指摘ね。たとえ光子検出器 \(D_1\)\(D_2\) のデータを見なかったとしても、光子がどちらかの検出器に入った以上、原理的には区別できる。だから干渉は消える。

⚪ メイ: つまり「知らなかった」ではなく「知りうる」かどうかが問題なのね。

🟡 リナ: そう。これは量子力学の最も深い部分の一つで、「情報」と「物理」の関係に関わる話。第 23 章の EPR パラドックスや 第 25 章の測定問題で再び深く掘り下げることになるわ。

✅ 理解度チェック: 「原理的に区別できる」と「実際に観測した」の違いは、干渉の有無にどう影響するか。

答え

干渉の有無を決めるのは「実際に観測したかどうか」ではなく「原理的に区別できるかどうか」である。たとえ検出器のデータを見なくても、経路を区別する情報が環境のどこかに記録されていれば(原理的に区別可能であれば)、干渉は消える。

✅ 理解度チェック: 二重スリット実験で、各スリットの後ろに光源を置いたが、光子検出器のデータを一切見なかった。干渉縞は現れるでしょうか?

答え

現れない。光子がどちらの検出器に入ったかのデータを見たかどうかは関係なく、光子が散乱された時点で「どちらのスリットを通ったか」が原理的に区別可能になるため、振幅ではなく確率を足す。干渉項は消える。

📝 練習問題:


4.8 この章の全体像 — 3 つのルールの意味

🟡 リナ: この章で学んだことを振り返りましょう。

🔵 カイ: 今日の話を振り返ると……干渉を説明するのに位相が必要で、だから複素数が出てくる、というのは分かりました。でも、位相を表すだけなら実数の \(\cos\theta\) でもできそうじゃないですか。「なぜ自然のルールが、よりによって複素数という数学的構造にぴったり従うのか」——そこがまだモヤモヤしてます。

🟡 リナ: それは非常に深い問いね。一つだけヒントを言うと、\(\cos\theta\) だけでは「足し算と掛け算の両方が閉じた体系」にならないの。たとえば \(\cos\theta_1 \times \cos\theta_2\) は積和の公式で \(\cos\)\(\cos\) の和に分解できるけれど、結果が「一つの \(\cos\)」にはならない——つまり「掛けたら一つの位相の \(\cos\) に戻る」という簡潔な構造がないの。複素数なら \(e^{i\theta_1} \cdot e^{i\theta_2} = e^{i(\theta_1+\theta_2)}\) と、掛け算の結果がまた一つの位相を持つ複素数にきれいに戻る。この「閉じた構造」が、第 3 のルール(振幅を掛ける)を自然に実装するのに不可欠なの。実は「実数の振幅だけで量子力学を作れないか」「四元数ではどうか」という研究は実際にあって、実験的に排除されつつあるの。でも「なぜ複素数なのか」の最終的な答えは今も研究されているテーマよ。今の段階では「複素数を使うモデルが実験と合う」という事実を受け入れて先に進みましょう。

🔵 カイ: なるほど……「掛けたら閉じる」ためには複素数が必要で、\(\cos\) だけだと第 3 のルールがうまく回らないってことですね。完全には腑に落ちてないけど、「実験と合う」を出発点にして先に進みます。

🟡 リナ: そうね。そして今日のルールの全体像を整理すると——区別できない経路の振幅は足す、連続した過程の振幅は掛ける。壁が何枚あってもスリットが何個あっても、この 2 つのルールの組み合わせで振幅が組み立てられるの。

⚪ メイ: 構造がシンプルだから、どんな複雑な配置でも同じ手順で振幅を書き下せるのね。

🔵 カイ: そして、振幅が複素数だから位相差が生まれて、足したときに干渉が起こる。これが二重スリットの干渉縞の正体だった。でも一つ気になるのは、「区別できない」って誰にとって? 宇宙のどこかに情報が残っていたらアウトなんですよね。その「情報が残る」の境界って、どこまで厳密に決められるんですか?

🟡 リナ: 非常に深い問いね。実は「情報がどこにどれだけ残るか」を定量的に扱う枠組みがあって、それが 第 25 章 の測定問題で正面から取り組むテーマよ。今は「原理的に区別可能かどうか」というルールを使いこなすことに集中しましょう。

🔵 カイ: ちょっと待ってください。さっきの光源の話だと、波長が長いと「区別できない」に近づくって言ってましたよね。ということは、「完全に区別できる」と「完全に区別できない」の間にグラデーションがあるんですか? 半分だけ区別できる場合は、干渉も半分だけ残る?

🟡 リナ: まさにその通り。式 (4.27) で \(b\) がゼロと \(a\) の間の値を取るとき、干渉項は完全には消えないけれど弱まる。「どれだけ区別できるか」に応じて干渉の強さが連続的に変わるの。今日の式 (4.27) がまさにその中間状態を記述しているのよ——\(b = 0\) なら干渉ゼロ、\(b = a\) なら干渉最大、その間は連続的に変わる。定量的な議論は 第 25 章 でさらに深めるわ。

⚪ メイ: つまり「区別できる度合い」が連続的に変わると、干渉の強さも連続的に変わる。白黒ではなくグラデーションなのね。

🔵 カイ: 完全に白黒じゃなくてグラデーションがあるっていうのは意外でした。でも式 (4.27) が中間状態も含めて記述してくれているなら、とりあえず今は「原理的に区別できるかどうか」を判定基準にして進めばいいんですね。……ただ、「原理的に区別できる」の判定って、実際の問題では迷わないんですか?

🟡 リナ: 実際には「終状態に物理的な違いがあるか」を見ればいいの。光子がどちらの検出器に入ったか、粒子の内部状態が変わったか——そういう物理的な痕跡が残るかどうかが判定基準よ。次の章以降で具体例をたくさん扱うから、そこで感覚がつかめるはずよ。

🔵 カイ: 「物理的な痕跡が残るかどうか」か。具体例を見ないとまだ完全にはピンと来ないけど、判定基準としてはシンプルですね。……ただ、「痕跡が残る」って、たとえば空気分子に当たって散乱されたとかも含むんですか? そうだとしたら、日常世界では常に干渉が消えてることになりません?

🟡 リナ: まさにその通り。日常のスケールでは環境との相互作用で経路情報が漏れ出すから、量子的な干渉はほとんど観測されない。空気分子や光子が勝手に「観測者」の役割を果たして経路情報を記録してしまうの。これが「なぜ日常世界は古典的に見えるのか」という問いにつながるわ。第 25 章デコヒーレンスとして詳しく扱うわ。

🔵 カイ: じゃあ逆に、干渉を見たいときは環境との相互作用を徹底的に遮断しないといけない……でも完全に遮断するなんて可能なんですか? 真空にしても重力は遮蔽できないし。

🟡 リナ: 完全な遮断は不可能だけど、実用上は「干渉を壊す主な原因」を特定して抑えれば十分なの。重力については、現在の実験で扱う粒子のスケールでは重力によるデコヒーレンスは無視できるほど小さいわ——干渉を壊す主犯は熱的な光子や残留気体分子との衝突なの。だから真空にして極低温に冷やせば、干渉を十分長く保てる。量子コンピュータはまさにそうやって環境からの「おせっかいな観測」を極力減らしているのよ。完全な遮断が不可能であることの帰結は 第 25 章 で扱うわ。

🔵 カイ: なるほど、重力じゃなくて熱的な光子や気体分子が主犯なんですね。それなら真空+極低温で対処できる。でも「完全には無理」ということは、どんな量子系もいつかは干渉を失う……?

🟡 リナ: その通り。現実の量子系は必ず環境と少しずつ相互作用するから、時間が経てば干渉は徐々に失われていく。量子コンピュータの研究者が「コヒーレンス時間」——干渉が保たれる時間——を必死に延ばそうとしているのはまさにこのためよ。これがデコヒーレンスの本質で、第 25 章 の核心テーマになるわ。今の段階では「環境との相互作用が経路情報を漏らすと干渉が消える」——これが今日学んだルールの直接的な帰結だということを押さえておけば十分よ。

⚪ メイ: まとめると、終状態が区別できるかどうかで「振幅を足す」か「確率を足す」かが決まる。そして「区別できる度合い」が連続的に変わると、干渉の強さも連続的に変わる——式 (4.27) の \(b\) がその度合いを表すパラメータになっているのね。観測によって区別可能になると干渉が消える。

🟡 リナ: 完璧なまとめね。ここで一つ強調しておきたいのは、今日のルールは非常に一般的だということ。二重スリットだけでなく、原子の中の電子、光子の散乱、素粒子の反応——量子力学が扱うあらゆる現象が、この 3 つのルールの枠組みで記述される。

🔵 カイ: でも、具体的な問題を解くには、各段階の振幅の値を知らないといけないですよね? \(\langle x | 1 \rangle\) とか \(\langle 1 | s \rangle\) とか。

🟡 リナ: その通り。今日は「ルールの構造」を学んだ。次の章では、具体的な物理系——スピン 1/2 の粒子と Stern-Gerlach(シュテルン-ゲルラッハ)実験——を題材にして、振幅の値がどう決まるかを見ていくわ。そこで、今日のルールが具体的にどう働くかを体験できるはずよ。


次章予告

🟡 リナ: 今日は確率振幅の 3 つのルールという「ゲームのルール」を学んだ。でも、ルールだけ知っていても、駒の動かし方が分からなければゲームはできないわよね。

次の 第 5 章では、スピン 1/2 という最も単純な量子系を取り上げる。Stern-Gerlach 実験で銀原子のビームが「上」と「下」の 2 つにきっかり分かれる——あの驚くべき実験結果を、今日の 3 つのルールで定量的に記述するの。

そこで自然に現れるのが、量子力学の数学的舞台である Hilbert(ヒルベルト)空間の萌芽。「状態」を 2 つの複素数の組で表し、それらを足したり掛けたりする——今日の 3 つのルールが、具体的な数値を持った計算として動き出すわ。

参考文献

  • R. P. Feynman, R. B. Leighton, M. Sands, The Feynman Lectures on Physics, Vol. III, Ch. 3: "Probability Amplitudes" (1965). 確率振幅の 3 つのルールの原典。本章の議論の骨格はこの章に基づく。
  • J. J. Sakurai, J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Ch. 1 (2021). Stern-Gerlach 実験から出発して振幅と状態の概念を導入する教育的アプローチ。Ch.5 以降で本格的に参照する。
  • P. A. M. Dirac, The Principles of Quantum Mechanics, 4th ed., Ch. 1 (1958). ブラケット記法の原典。「重ね合わせの原理」の最も簡潔な定式化。